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弥太郎、清の麺料理を美味しくいただく

三月七日~九日 岩崎弥太郎は丸山遊郭での遊びを自粛中。長崎の物品を故郷土佐へ送るためにみつくろったり、清人と交流したりします。どうやら大分ストレスが溜まっている様子です。

三月七日 朝から故郷の縁者に送る品物を求めて出かけましたが、望みの品がなく「空しく帰る」。それでも縁者の名を挙げ、贈り物の品目を細々と記しています。その中に弥太郎と同い年で江戸で同じ安積艮斎あさかごんさいの門に学び、後に土佐藩勤王党で活躍した間崎哲馬の名もあります。

 その後、土佐に帰る下横目駒吉が挨拶に来たので書簡を託したり、林雲逵うんきに質問するために科挙制度に関する疑問点を記したりしました。夕方、中沢寅太郎を誘って下許武兵衛と三人、「布で顔を蔽って」茶屋に出かけます。下許は禁酒中でしたが、中沢の送別会だというので(酒で)唇を濡らした」。しかし、羽目を外せるような状況ではなく「何分愉快にはならず」少し酔ったところで帰りました。

三月八日 朝飯の後、土佐藩重役で弥太郎を長崎に派遣した「参政(吉田東洋)に手紙を書こうと思ったが、できなかった(不就)」午後、林雲逵宅に行ったものの不在で、他の二人の清人と筆談をしました。弥太郎は、イギリスの「火輪船」(外車式蒸気船)で運ばれて来た手紙――太平天国の乱に英国が介入したことが書かれている――を筆写しました。弥太郎の日記に当時の国際情勢が記された初めての例です。

「筆談中、清の麺料理(麺食)をご馳走になり、随分と美味しかった(随分味ノ可なる物ナリ)」中国料理を美味しかったと日記に書いた、これも初めての例です。清人たちと、雲逵との十日の再会を約して帰りました。帰り道、「異国人の画」(西洋画か?)を買い求めました。中沢に託して故郷の弟妹に送るつもりです。

 夕飯後、「余程心神が相疲れたので、少しの間休息のつもりで枕に就いたところ、ひと眠りのつもりが、たちまちの内に明け方(天明)になっていた」二人の下横目の到来以来、弥太郎は心が安まらず、精神的に疲労している様子です。

九日 「雨、不出戸、参政吉田君に上げる書簡を書いた」九日は一行だけの日記でした(「君」は目上の人への敬称)。この手紙については後で取り上げます。弥太郎の第一回長崎出張に関し、よく引き合いに出される文書です。


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