『ファイアパンチ』を語りたい

 『ファイアパンチ』を語ります。『ファイアパンチ』は週刊少年ジャンプ+で2016年4月18日から2018年1月1日まで連載されていた藤本タツキの漫画です。とても面白いです。
(注)この文章は漫画『ファイアパンチ』と漫画『チェンソーマン』あともろもろの映画のネタバレを含みます。

『ファイアパンチ』の中に出てくる名前

 『ファイアパンチ』には様々なキャラクターが登場します。主人公であるアグニや、アグニの妹ルナ、アグニを神と慕うサン、常に冷静なネネト、復讐のターゲットのドマ、べヘムドルグの教祖ユダ、とにかくいろいろです。

サンとルナ

 原作第4話でも言及されているようにサンは「太陽(Sun)」が由来です。一方、最終話でサンと名乗るようになったアグニがルナと名乗るユダと再び宇宙の果てで出会うシーンがあるように、ルナはローマ神話の月の女神「ルーナ(Lūna)」が由来でしょう。つまり、この2つの名前は「太陽」と「月」という関係なのです。それ以上はもう考察のしようがありませんが、すくなくともこの漫画の主人公であるアグニとその敵ユダ、男性と女性、などなどさまざまな二項間対立が見てとれます。

アグニとマキマ

 同作者の作品『チェンソーマン』のキャラクターにも由来があります。たとえば、主人公デンジは「天使」の発音が濁ったもの。アキは「空き」やAK銃からきてるそうです。しかし、ここで特筆するのはデンジのあこがれの人であり上司、マキマです。藤本タツキによれば、マキマの由来は「ママ」だそうです。チェンソーは木を切る道具であり、マキマの中のキを切ると、ママになって、デンジがマキマに求めていたのは、実は恋愛ではなくて、母性だったと分かる話にしたかったそうです。
 ある時私はアグニの名前の由来を必死で考えていました。そのとき、マキマが上記のような由来を持つことを思い出しました。同じ法則にしたがえば、アグニは「アニ」=「兄」が由来となります。(アグニの属性についてはあとでまた詳しく語ります。)これはかなり有力な仮説だと思います。まじで。
 じゃあなんでアグニの真ん中の文字は「グ」なのかって話ですよね。私はこれは「愚」だと考えます。実際41話では「一五歳のこるっ…頃から燃え続けて…死ぬほど痛くて…体だけデカくなったんだよ!」とアグニ自身が自分の精神の幼さを嘆いています。アグニは「愚かしい部分」を内包した、ヒーローというよりも人間らしい主人公なのかもしれません。
 ちなみに、第29話ではアグニの英語表記は「Agni」です。

裏切者ユダ

 レオナルド・ダ・ヴィンチが手掛けたことで有名な『最後の晩餐』という大きな壁画があります。確かあれって聖書でイエスが12人の使徒との晩餐中に「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と打ち明けた場面でしたっけ。それ以上は自分で調べてください。忘れました。
 一応名前の話をしているので、ここに12人の使徒の名前を挙げておきます。ペトロ、アンデレ、大ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、小ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユダ、マティアです。ここでいいたいのはイスカリオテのユダが裏切者だったという点ですね。第64話で大人になったサンがユダを「裏切者」と呼んでいます。それ以上でもそれ以下でもありません。
 使徒で思い出しましたが、藤本先生は新世紀エヴァンゲリオンにも多大な影響を受けているそうですね。自分は恥ずかしながら未履修です。

べヘムドルグ

 作品中の都市べヘムドルグ(behemdorg)はおそらくベヒモスあるいはバハムートに由来していると考えられます。ベヒモス(behemoth)は、『旧約聖書』に登場する陸の怪物です。一方、バハムート(アラビア語: بهموت‎, Bahamūt, Bahmūt)は、中世イスラムの世界構造の概念における世界魚またはクジラ(大海蛇とされる場合がある )です。まあよくわかんないです。

分からない由来

 トガタとかネネトは由来が分からずじまいです。そもそも藤本先生はあんまりメインキャラ以外には名前に意味を持たせないのかもしれません。有力な情報があったら教えて下さい。

『ファイアパンチ』あるいは藤本タツキと映画

 まえがきで述べたように、『ファイアパンチ』は2016年4月18日から連載が始まりました。つまり、この作品はそれ以前もしくは連載中に発表された映画を参考にしています。この章では、これらの映画を明らかにすることで、『ファイアパンチ』の核心に迫りたいです。

『スターウォーズ』シリーズ

『スターウォーズ』について本作中で初めて触れられるのは、第8話でのトガタ、二度目は第39話での「雪の魔女」によってです。『スターウォーズ』は、育ての親同然の人々を殺された主人公が、悪の組織に立ち向かう話で、途中で実は助けた一国の姫が生き別れの妹であることが判明します。『ファイアパンチ』では、妹の立ち位置がかなり異なりますが、二作品に共通しているのは、兄妹の物語ということです。(ちなみに、なんとなくスターウォーズは旧三部作を参考にします。)
 スターウォーズの第七作目にあたる『フォースの覚醒』は2015年に公開されました。先述の第39話では、「雪の魔女」は「スターウォーズの新作が中途半端な所で終わったんだ」と話しています。『スターウォーズ』の記念すべき第一作目である『新たなる希望』は1986年に公開されているので、『フォースの覚醒』から実に30年近く経過しています。たしかに、これからの『スターウォーズ』シリーズの寿命を考えると、自分が生きているうちにすべて見終えることができるのかという不安が襲います。まるで果てしなく続く宇宙のように。

他の映画

 トガタは旧時代に精通している人間として、映画を愛し、映画や映画館についての知識をアグニに共有します。そのなかで様々な映画に触れられます。
 トガタが例として挙げるまたは一部分に触れる映画としては『ブレインデッド』『スターウォーズ』『ホームアローン』『ファンタスティックフォー』『トイストーリー』『リトルダンサー』『スコットピルグリム』『エックスメン』『スパイダーマン2』『ハリーポッター』…
書いてから気づいたけどファイアパンチの元ネタ集みたいなんnoteで書いてる人がいてそっちの方が100倍詳しいから絶対そっち読んだ方がいいです。
 多分、それ書いた人は気づいてないけど、2巻あたりで出てきた「囚人に爆弾埋め込んでいうこと聞かせる」発想は絶対『スーサイド・スクワッド』のオマージュです。多分時期的に劇場で見てそのまま採用した感じだと思います。
 あと、終わり方は『パッセンジャー』とか『インターステラー』『千年女優』に近いものを感じますね。

ある推測

 藤本タツキはもともとそれほど映画好きではなかったのではないか、という推測をしました。なぜなら『チェンソーマン』や『さよなら絵梨』など『ファイアパンチ』以降の作品に頻繁に登場する映画オマージュは、それ以前には一切登場しないからです。ここに、現在の編集者、林士平氏が絡んでくるのだと踏んでいます。林氏本人は売れている漫画や映画、小説は一通りチェックし、売れた理由や売れるポイントを分析していると述べています。ここで、林士平氏から藤本先生の方に「映画をたくさん見て参考にすればもっと作品に深みが出るかも」とか「もっとこれまで見た面白かった映画を作品に反映してみたら?」とかアドバイスをしたのかもしれません。

単純に感想

 なんか世間的に不評らしいですが、僕は全くそんなこと気にしていません。むしろ先に『チェンソーマン』を読んでいたからこそ、こう、漫画を通して藤本先生が伝えたいことを大きくとらえることができたと思っています。
 主人公のアグニは妹や村の復讐のために様々なコミュニティに属し、「主人公」や「神様(信仰対象)」「悪魔」「家族」など様々な属性を与えられ、思わぬ形で自己を四方八方に引き裂かれていきます。そんな中で、アグニは最終的にルナの「アニ」であるというアイデンティティのみゆるぎないものであるという結論に至るのだと思います。これは、個人的に、最近見た『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のような場所や実体を超えた家族愛のようなものであると思います。とても好きなテーマです。

 大学のレポートでさえこんなに長い文章を書いたことがないので、そろそろ終わりにしたいと思いますが、次の話は妹についてです。藤本先生は妹とのかかわりを描いた作品が多いように思います。なんなら先生自身が自分の妹を騙った「ながやまこはる」としてTwitterをしています。まじで狂気です。
 では藤本先生には実際妹がいるのか、これは謎のままです。個人的な推測だけを述べると、
①いない。藤本先生の性癖及び妄想。
②いる。年はわからない。
のどちらかだと考えています。『予言のナユタ』『チェンソーマン』のナユタや『ファイアパンチ』のルナ、『チェンソーマン』のパワー(妹ポジションという意味で)、短編『姉の妹』に至っては妹がそもそもタイトルに入っています。藤本先生の作品では父親や母親について深く描かれることは少ないですが、その分妹に対しての責任感や庇護欲のようなものが感じられる作品が多いように感じます。

まとめ

 私自身は、漫画や映画、小説などの創作物に対して、筆者の癖や考え方の偏りが無意識に表されているように思います。たとえば、『僕のヒーローアカデミア』の作者、堀越先生自身はやせていて、瘦せ型のキャラ描写はとても上手に描かれていますが、一方でファットガムなどの肥満体型のキャラはデフォルメされすぎているようにも感じます。作品全体を通して作者の人物像やバイアスを見定めようとすることは半ば作者への冒涜のように思われる方もいるかもしれませんが、わたしにとってはこれも立派な作品の楽しみ方だと思うので、これからもたのしくいろんな作品を読み解いていこうと思います。


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