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【ショートストーリー】紳士協定

久しぶりに見る夜景は思っていた以上に心に沁みる。そんなつもりはなかったけれど少し熱くなっていたらしい。心と頭に湖から吹く風が冷やしていく。少しずつ少しずつ冷静さを取り戻していくのがわかった。
以前、自分を取り戻すために寄ったプラットフォームのようなあの場所は、私にとって特別な場所になった。元カレと再会した後もあの場所で心を静めていた。終わらせたつもりでいた恋が終わっていなかったことを自覚したあの日。自ら望んで手放したのに、未練たっぷりなことに自嘲した。後どれだけ時が過ぎれば全てを忘れられるだろう。1年?2年?それとも…。その間ずっとこの辛い思いを抱えていなくてはいけないのか…。絶望しかけた時だった。
「大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは元カレと再会した時にそばにいた彼だ。あの後、彼は私に何も聞かず、何事もなかったように振舞ってくれた。その気遣いが嬉しかった。反面、巻き込んでしまった以上、最低限の事は伝えた方が良いとも思った。仕事終わりで彼の予定が空いた今日、近くのコーヒーチェーン店に誘った。個室ではないが、パーテーションで区切られていて個室と同じような空間になっていたお陰でセンシティブな内容も何とか話すことができた。彼は最後まで黙っていてくれた。話し終わって少しの間、お互い黙り込んだ。最初に口を開いたのは彼だった。
「あの人は、ずるいですね。」
私はその言葉に答えなかった。彼もそれ以上は何も言わなかった。
「大丈夫だよ。」
私は小さく笑った。頭を冷やしてから帰ると言ったら彼はついてきた。心配だという彼をまだあの場所に連れてはいけなかった。だからもう一つ別のお気に入りの場所へ来た。プラットフォームのようなあの場所から少し離れた駐車場。ここもまた夕日を見るのに最適な場所なので、その時間帯は車でいっぱいになる。でも日が沈んだ今はほぼ車は停まっていない。そしてここも湖に映る夜景が美しい。しばらくぼんやりと夜景を見ていた。

「風間さん?」
彼がまた心配そうに声をかけてきた。私はもう一度笑顔を見せた。
「夕布子でいいよ。」
私の返答に彼はびっくりしたように目を見開いた。
「ま、2人でいるときだけね。」
「それはそうでしょうけど、いいんですか?」
「いいよ。」
特別な場所には連れていけなかったけど、彼を信用したことを示す証だった。
「じゃあ、僕の方が年下なので夕布子さんで。」
「何それ。」
彼と話すことで落ち込みかけた心が少し元気になった。
(また助けてもらっちゃったな…。)
彼には頭が上がらない。私よりずっと辛い恋をしているのに、何故優しくできるのだろう。
「ありがとう。」
今、私にできるのはお礼を言うことだけだ。いつか彼のためにできることを見つけることができるかな。そんなことを思っていた時だった。
「じゃあ、僕の事は和哉で。」
何故か照れ臭そうに彼が言った。彼も少しは私の事を信用してくれたのだろうか。
「へえ、三橋君って和哉っていうんだ。」
「酷いなあ。最初に会った時、名刺渡したじゃないですか。」
「そうだっけ?事務職なんて名刺見ることないからなあ。」
「よく言いますね。」
彼と軽口を言い合うこの時間が妙に心地よかった。彼もそう思ってくれていると嬉しい。
「寒くなりましたね。そろそろ行きましょう。」
「そうだね。」
私はもう一度夜景を見た。私は今日も泣けなかった。あいつのために泣けたら忘れられるだろうか。答えはまだ見つけられないでいた。


『starting over』シリーズの1作で自己紹介の回です(笑)
元々名前を考えてはいたのですが、短編のうちはいいか、と出さずにいました。ところが、登場人物が増えてきて書いていても混乱することしばし。なので名前を出すことにしました。『私=風間夕布子』『僕=三橋和哉』をよろしくお願いします。他の登場人物についても順に名前を出していきます。

他のお話は↓をご覧くださいm(__)m


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