見出し画像

【SS】青に還る

「青写真通りの未来なんて、あるわけないだろう。」
その爺さんはぶっきらぼうにそう言った。落ち込んでいる人間に向かってそんな言い方はないだろう。そう言いたい気持ちを僕は口を尖らせて飲み込んだ。
会社帰り。いつもなら目に入らない古本屋が目に留まった。何故だろう。素通りできなかった。今日は入ってみたいと思った。ガラスの引き戸を開けると、古本がぎっしりと入った本棚が狭い空間に何台もある。なのにそこにも入りきらない本が、床の上に置かれた簀の子の上に積み上げられていた。空間の奥に店主らしい爺さんがいたが、こちらを一瞥しただけで「いらっしゃい」とも「出ていけ」とも言わなかった。放っておかれたことを良いことに僕はそのまま店の中に入って本を物色し始めた。
「おい、床が抜けるぞ。」
「えっ?」
突然、爺さんに声を掛けられて僕は顔を上げた。
「何度ため息をついている。お前の周りだけ床が沈んでいるぞ。この店は古いんだから、そんなんじゃ抜けてしまうぞ。」
「そんなこと言われても…。」
理不尽なことを言われて僕はちょっとムッとした。反面、そんなにため息をついていたのかとまたため息をつきそうになった。
「そんなに失敗するのが怖いか?」
「えっ?」
「さっきから青い表紙の本ばかり選んでいるからだよ。」
意外な言葉に驚いて手元を見ると、確かにジャンルは違うが青い表紙の本を何冊か手に取っていた。それにしても何を根拠にそんなことを思ったのだろう。僕はまじまじと爺さんの顔を見つめた。
失敗するのが怖い。そうかもしれない。いつも不安だった。自分で選んで歩いているこの道が正しい道である確証が欲しかった。だけど日々を重ねていくにつれこんな思いが浮かんできた。
「描いた通りの道を歩いていたはずなのに。」
「正しい道を選んだはずなのに。」
「こんなはずじゃなかった。」
そんな僕に向かって爺さんが放ったのが冒頭の言葉だった。
「あんたに必要な青はこれだよ。」
爺さんは僕が持っていた本を取り上げ、1冊の本を手渡した。その本は海の写真、文字通り青写真が表紙だった。開いてみると様々な海の写真が載っていた。光の加減だろうか。海の青が前のページの写真とは違って見える。「青」と一口に言うけれどこんなにも多彩なのだということを思い知らされた瞬間だった。そうか。爺さんはそのことを言いたくてこの本を見せてくれたんだ。青が一つじゃないように、道も一つじゃないということを。
その本を見ていくうちに左側が海の写真、右側が文章であることに気が付いた。海の写真に合わせた散文詩だった。読むともなしに読んでみると、言葉が少しずつ心に沁みわたっていく感覚になった。
「ほう、詩にも目が行くようになったか。」
満足そうに呟く爺さんに僕は言った。
「この本、いくらですか?」

数分後、僕はある喫茶店の前に立っていた。本を買って古本屋を出る時に爺さんに言われたのだ。
「その通りの先に『詩と暮らす家』があるから行ってみろ。」
「『詩と暮らす家』?」
「あんたにはどんな部屋が用意されているかね。」
さっきまでの説教をするような口調が消え、優しく包み込むような言い方になっていた。だから僕も行ってみようという気になっていた。
『喫茶ポエム』と書かれた木の看板の下。見逃してしまいそうなほど小さな札に『詩と暮らす家』と書いてあった。僕はあの古本屋で買った本を抱えて中へ入った。

「いらっしゃい。あっ、家に来たんですね。どうぞ、こちらへ。」


こちらに参加しています。

以前シロクマ文芸部↓のお題が出た時、『心が還る場所』という作品を書きました。

この作品をシリーズ化できないかな、と最近思い始めていました。というわけでこの作品はシリーズ化第一弾です。このシリーズは短編のみにしようと思っていますのでよろしくお願いします。
こんなことを思いつけたのもシロクマ文芸部に参加したおかげだと思います。改めましてこのような機会を作ってくださった小牧部長に感謝します。ありがとうございます!!

なお、今回の作品のモデルは↓の写真詩集です。写真は中村庸夫さん。文は吉元由美さんです。美しい海の写真と優しい散文詩に癒される一冊です。


1996年12月5日初版
(この本は1997年の2版)
KKベストセラーズ発行となっています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?