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【SS】一瞬

「布団からベッドへ。ちゃぶ台からダイニングテーブルへ。生活は変わっていったわ。結婚して、子供も二人いて。貧しかったから古くて狭いアパートの一室に四人身を寄せ合って暮らしていた。主人と二人一生懸命働いたの。必死に働いていたから苦しいとか辛いとか考える暇もなった。今は広い家に住まわせてもらっているわ。子供たちも独立したし、楽をさせてもらっているわ。でも、なんかね、あの頃の狭いアパートがたまらなく懐かしいのよ。主人と二人で頑張った日々が。」
その老婦人はそう言って軽くため息をついた。
「あら、ごめんなさい。こんなおばあさんの昔語りに付き合わせちゃって。」
「いいえ。」
私は小さく笑った。その老婦人は大学の聴講生になって初めてできた友達だった。
「家にいても暇だから。何かしたくなったの。」
彼女はそう言っていた。
「私もそんなふうに思うこと、ありますよ。」
「あらあら。お若い新婚さんが何言っているの。」
彼女はそう言ったけど、私は返さずに俯いていた。
私が結婚したのは二年前。相手は高校の一学年先輩で、ものすごく憧れた人だった。同じ部活に入り、懸命に彼を追いかけたけど振り返ってはもらえなかった。その後、何もないまま高校・大学と卒業し、就職して数年後に彼と再会した。どちらともなく付き合い始め、そして結婚した。その時の私は幸せの絶頂だった。結婚出来れば貴大さんを自分のものにできると思っていた。ようやく欲しかったものを手に入れられたと思った。でも…。結婚した頃から貴大さんの仕事が忙しくなってきた。元々優秀な人で将来を嘱望された人。一つのプロジェクトを終わらせると次が来る、といった感じで仕事が途切れなかった。最初のうちは何とか二人の時間を作ってくれていたが、最近ではそれすら難しくなるほど忙しくなったようだ。結婚を機に仕事を辞めていた私は、次第に時間を持て余すようになってしまった。新たに仕事を始めようにも中々思うように仕事が見つからない。貴大さんも「無理して探さなくていい」と言ってくれている。でも、家に一人でいると、なんだか置き去りにされたように感じてしまう。結婚したのに貴大さんがどんどん遠くに行ってしまう気がして寂しかった。そんな風に思う自分に嫌気がさしてきた頃、大学の聴講生募集の記事が目に留まった。何がしたいわけじゃない。でも何かしたかった私は、思わずこれに飛びついた。そして今に至るのだ。
「ねえ、時間あります?学食でお茶でもしません?」
「いいですね。行きましょう。」
そう言って歩き始めた時だった。向こうから勢いよく走ってきた人と肩がぶつかった。
「あっ!すみません!」
その人は振り返って私に近づいてきた。
「ええ…。大丈夫です。」
「…彩乃さん?」
名前を呼ばれた私は、肩をさすりながらその人の方を見た。
「もしかして、和哉君?」
「うわぁ、久しぶりですね。」
高校の後輩、三橋和哉との思いがけない再会だった。和哉君は本当に嬉しそうな笑顔を私に向けてくれた。あんな笑顔で私を見てくれる人に会ったのは久しぶりだ、と思った。
「貴大先輩、元気ですか?」
「ええ。相変わらず忙しくしているけど、元気よ。」
「今日はどうしてここに?」
「私、ここの聴講生なの。和哉君は?」
「僕は仕事で…。わっ!しまった!もう行かなきゃ。じゃあ、また!」
和哉君は爽やかな笑顔を残して去っていった。
「あらあら、木崎さん。隅に置けないわね。」
そばにいた彼女にからかわれて我に返った。
「や、やめてくださいよ。あの子は高校の部活の後輩ってだけで何でもないですから。」
「あら、そうなの。名前を呼び合っているから、てっきり何かあるのかと思っちゃったわ。」
「私たちが所属していた部活には変な伝統があって、苗字じゃなくて名前を呼び合うことになっていたんですよ。」
「面白いわね。」
「同じ苗字の人が何人か同時に入ったせいというのが有力な説ですけど。」
話しながら高校生の頃を思い出していた。他の人の視線を感じながらも貴大さんだけを追いかけていたあの頃を。
「どんな部活だったか教えてくださる?」
「ええ、いいですよ。学食でゆっくり話しましょう。」
私たちはまた歩き出した。
「ねえ、木崎さん。私もあなたの事、彩乃さんって呼んでいい?」
「もちろんですよ。私は今林さんのこと、なんて呼んだらいいですか?」
「私?スズエっていうのよ。」
「スズエさんですか。」
久しぶりに女子会のような時間を楽しんでいた私。実はこの時、運命の糸が絡まりだしたことに気づいていなかった。


こちらに参加しています。

ちょっと作品を作るのに苦労したせいで、思い切り遅刻してしました🙇
こちらは「Starting Over」シリーズの一作でもあります。


↑のキーパーソン、「木崎彩乃」を主人公に書きました。この人がどう話に絡むかは今後のお楽しみ、ということで。


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