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夢の顔

 小川康平は、彼がいつも通勤に使っている乗換駅にいる夢を見ていた。光の加減から午後二時ころではないかと思うが、ホームには人がほとんどいない。ベンチに一組の男と女が座っている。具合が悪くなった女性を男が助けたところのようだったが、小川が二人の前を通り過ぎると、男は彼を見てなぜか怯えたような顔をした。そこで目が覚めた。
 
 次の日の夢でも同じ駅にいた。改札を抜けると、昨日の二人がエレベーターの前に並んで立っている。女はすっかり元気になったらしく、男と親しげに話していた。小川があわててエレベーターに乗りこもうとすると、眼の前でドアが閉まってしまう。普通なら、箱の中にいた二人のうちのどちらかが扉を開けてくれるのだろうが、そこは夢である。彼らは、立ち尽くす小川をただ無表情に見ていただけだった。
 それにしても、なぜ自分はエレベーターに飛び乗ろうとしたのだろう。見ていたのは女だけで男はうつむいていたような気もするが、あの男は自分を知っているのか?夢とは言え、なんだか薄ら寒い思いがする。

 次の日の夢で駅を出た小川が歩いていると、向こうからあの男がやってきた。女の姿はなくひとりだったが、その薬指には指輪がはめられている。相手は、あの女か。すれ違う直前、男は小川を見て走り出す。なぜだ?走って追いかけようとしたが、男は風のような速さで行ってしまった。

 通りがかった店のウインドウで小川が自分の顔を見ると、あの男とまったく同じ顔をしている。目が覚めた小川はすぐに自分の顔を鏡にうつしてみたが、夢の男と似ているのかどうかよくわからなかった。どうもよく男の顔を思い出せないのだ。だが、小川にはいまの自分が孤独だということだけはわかっていた。最初の夢の晩にあと五分早く眠っていたら、夢の中で女を助けたのは自分だったのに、男は小川に訪れるはずだった幸福を夢の中で奪ったのだ。

 以来、乗換駅に行くたびに夢の男のことを思い出して腹が立つようになった。じっさい自分そっくりの男がどこかで幸せになっているのかもしれないし、そいつが幸せになればなるほど、やつが本来味わうはずだった不幸が自分にふりかかるような気がする。
 
 昨日、駅であの男によく似たやつを見かけた。夢の男に似ているのか、それとも自分自身に似ているのかよくわからないけれど、あいつだという確信があった。そのすぐあとで、小川は階段から落ちたのだ。幸い大した怪我はしなかったが、このままだと本当にあぶない。向こうは小川の存在を消そうとしているのだろうが、そうはさせるか。夢をコントロールして、あいつから女を奪ってやる。夢なのだから、何をしたって許される。それには、夢の中でこれは夢だと気づくことができる明晰夢を見ることだ。

 それから小川はありとあらゆる睡眠の本を読み、催眠療法に金を投資し、明晰夢を見る能力を身につけた。ある日、駅のホームに佇みながら、これが夢だと気づいた瞬間は、喜びで体が震えてしまった。改札を抜けるとそこに女がいたが、隣に男はいない。女は小川を見て、こちらに近づいてくる。胸が高鳴ったが、それが喜びなのか不安なのかよくわからない。

「同じ電車だったんだね」
 女は小川に向かってそう言った。よほど似ているのか、自分が夫だと信じ切っているようだ。だが、このまま一緒に家に帰ったりして男と鉢合わせしたらまずいと思った小川は、「今日は外で食べないか」と、すました顔で女を誘ってみた。
「外で食事?久しぶりだね」
 並んで歩き出したものの、何を話していいのかわからない。考えてみると、彼女の名前も年齢も仕事が何なのかも知らないのだ。それ以上に、女の話が意味不明で小川はとまどっていた。
「・・・・・・・・」
「え?」
「だから、・・・・・」
 
 はじめは夫婦にしかわからない話なのかと思ったが、そもそも言葉にも聞こえない。まくしたてる声を聴いていたら、めまいがしてきた。頭のなかにもうひとつ頭があって、そいつが激しく揺れているみたいだ。目を閉じても目玉が動き回ってどうにかなりそうだ。
 気がつくと、病院のベッドに寝かされていた。これは夢ではない。医者から、あなたは一か月以上昏睡状態だったのですと告げられたが、それは夢を見始めるより前の日付だ。
 夢だと思ったのも現実だと信じていたことも、すべて夢だったのか。

 ★
 
 このところ、山内茜は毎日いやな夢を見ていた。それは、ずっと昔に別れた男の夢だった。
駅で倒れ、そいつが自分を助けに現れる。罪悪感だって?そんなものではない。夢に意味などない。残存記憶が入り混じって、適当に事が進むだけ。
おまえはもう私の人生に存在していない、たとえ夢でも現れることは許さないと茜が言おうとしたときには、すでに目が覚めたあとなのだ。翌日も夢の中で男に会い、食事をしてホテルに行く。目が覚めるたびに吐き気がするが、夢だから逃れられない。もう一度、夢の中で別れればいいのか?いっそのこと、殺してやろうか。

 ある日、茜が電車に揺られていると、隣の車両にあいつによく似た男がいるのを見つけた。これは、夢ではない。あの男はいつもこの電車に乗っているのだろうか?今までも気づかずにあの男を視界に収めていて、そのせいで夢を見たのか。
 
 帰りの列車にもあいつの姿があった。同じ車両の少し離れた場所で、つり革にぶら下がって阿呆みたいに外を眺めている。どうする。あの男に声をかけるか?それでどうする?
 悩んでいても始まらない。ここで機を逸するわけにはいかないのだ。茜は改札を出ると、そっと男に近づいていった。

「同じ電車だったんだ」
 もしも怪訝な顔をされたら、知り合いと間違えて声をかけたふりをすればいいと思った。それから先のことは考えていなかったが、適当に誘って男がその気になったところで捨ててしまおう。それで夢から開放されると思ったのだが、なぜか男は古い知り合いのような顔をして食事に誘ってきた。なんだ、こいつは。別れた男に似ているが、確かに別人だというのに。本当に知り合いなのか?わからない。まあいい、そっちがその気ならもっと仲良くなってやる。
「・・・・・・」
 レストランの名前を言ったつもりだったが、うまく言葉にならない。
「・・・・・・・・」
 魚料理が絶品で。好き嫌いの多いあなたにもあう。ワインはいつもの銘柄で。そう言っているつもりなのに、まるで違う言葉が口から溢れ出る。いや、すでに言葉ですらなく、自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。おかしな女だと思われているだろうかと思って相手を見ると、男はうずくまって頭をおさえていた。
「・・・・?」
 死ねばいいのにと思っていた相手に声をかけながら、茜は眼の前が真っ暗になるのを感じていた。
 

 俺は、夢の男だ。

 現実には存在していないし、誰かの夢の中でしか生きることができない。
 人というのは、目が覚めると夢の内容は忘れるものらしい。勝手だな。だが、俺が出てきた夢は誰も忘れられないことになっている。それでいてすべてを覚えていられるわけでもない。しかも、俺の顔は認識することすらできない。それでいて、時間が経つうちにその夢は現実の記憶に置き換えられてしまう。

 夢の内容はたわいもないものだから、たいていはそれでどうってことはない。駅で俺に手袋を拾ってもらったとか、俺に道を尋ねられたが知らない場所だったとか。のちにそれが実際の記憶になってしまったとき、そいつは気になってその地名を検索してみる。だが、どこにもない場所だ。あれはなんだったのかな、と思うがそれだけだ。あんな手袋は持っていないのにと思う。少し不思議だ。でもそれだけ。

 何年かに一度、俺はひとりの夢のなかになんども現れる。べつに好きでやっているんじゃない。意味のないルーティンなのだ。
 最近俺が現れた夢主は、女だった。
 はじめの夢は、駅ですれ違うところから。次は同じ列で電車を待つ、隣の座席に座る。女の記憶に俺が潜り込んだところで、駅で倒れたところを介抱する。そんな出来事があったら、親しくなるのが普通だと言わんばかりに夢は進行していく。内心で女は嫌がっていたが、俺も女のことが嫌いだった。

 女は、俺を殺そうとしてきた。むろん、現実ではなくて夢の中でだ。
 そこで俺は、適当な夢主を探して女にあてがうことにした。相手は夢だから何をしてもいいと思っているが、夢の中でしか生きられない俺なのだ。殺されちゃあ、かなわない。新たな夢主となった男は、俺のことを自分にそっくりだと思ったらしいが、そんなことはありえない。俺は便宜上俺と言っているだけで、男でも女でも老人でも子供でもない、相手にどう見えているのかは俺自身わからない。ま、あいつが似ているというからにはそうなんだろう。

 俺が意識下に潜入したあと、男は夢で俺と女を見つけた。俺達が親しくしているのを見て、怒り狂っている。幸せを奪われたとかなんとか言っている。俺は二人を引き合わせた。男と女、勝手にやってくれという気持ちだったのに、ふたりともぶっ倒れてしまった。
 
 夢は途中になった。だが、ふたりとも、もう目を覚ましているらしい。
 俺がなぜそれを知っているかというと、ついに俺が現実になってしまったからだ。もう、夢の男ではない。

 今は、夢を見るのが怖い。

 
 


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