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名を呼ぶ

「すずきさん」
 群集のなかで、名前を呼ばれた。振り返って私の名を呼んだ人を探したけれど、人波のなかでこちらを見ている人は誰もいなかった。休日の街は人であふれている。前にも後ろにも両隣にも人が歩いてるし、ガラス張りのカフェを見ても、空席はひとつもない。
 おそらく、私ではない「すずき」を呼んだ人がいたのだなと思い、私は再び歩き出した。ありふれた名前を持っていると、こういうことは珍しくない。

 帽子を被ろうと長袖を着ようと、太陽は私の隙間を見つけ出して忍びこんでくる。まるで監視され、付け回されているようだ。今日もまた、何も手に入れられずに終わりそうだ。いったい何のために、こんな場所にいるのか。
「すずきさん」
 その声は、さっきよりずっとはっきりと一文字ずつ念押しするように響いた。誰かが早足で近づいてくるな、と思ったときにはもう、すぐ隣にひとりの女がいて私の顔を覗きこんでいた。
「何度も呼んだのに、ぜんぜん振り向いてくれないんだからあ」
 フレンチ袖の青いワンピース、白い編み上げサンダル。手には紙袋を持っている。買ったばかりの靴と思しき箱が見えていた。女の顔に、まるで見覚えがなかった。歩道の真ん中で立ちどまる私たちのまわりを苛立たしげに人波が避けていく。
「さっき一度振り返ったんですけど、誰もいないと思って」
「うそ。ずんずん歩いていたじゃない。それにしても久しぶり。三年ぶり?」
 言われて三年前の記憶をたぐり寄せてみた。たしか、高校の同窓会がどこかのホテルであったような気がするが、私は出席していない。女に名を尋ねたら機嫌を損ねそうな気もするし、だいいち、名乗られたところで思い出せる自信もなかったので曖昧に頷いた。
「元気だったの?」
「まあ、元気です」
「何してるの、今は」
「同じ仕事ですけど」
 女は紙袋を右手から左手に持ち替え、隙間を埋めるように、にじり寄ってきた。私が地下鉄の駅に向かおうとすると、女も当然のように並んで歩き出した。
「仕事、やめたでしょ」
「え?」
 女は仕事関係の人間だろうか。こんな人に出会ったら、忘れるとも思えないのだけれど。
「ところであの犬は元気?ほら、大きくて毛の短い気の荒い犬を飼っていたでしょ」
「犬は飼っていませんけど」
「そうか、それは大昔だったね」
 信号が変わって、女は歩き出した。この女、誰かと私を勘違いしているのか。仕事を辞めて、気の荒い犬を飼っているすずきさん?。なんだかそっちのすずきさんが可哀想になってくる。私は昔飼っていた雑種犬を思い出した。たしかに大きな犬だった。この女はやっぱり知り合いなのか。高校よりもずっと昔の…。
「こんどゆっくりお茶でも飲みましょうね」
 地下鉄の階段にさしかかったところで、ふいに女は立ちどまった。
「はい、みなさんによろしく」
 いったいどこの『みなさん』なのかも知らないのに、私はうっかりそう口にしてしまった。女は私じっと見つめて、
「みなさん?」
 低い声でそう言った。なんとなくこれでもう二度と、女に名前を尋ねることはできないだろうと思った。
「ほんとうに伝えておくわよ」
 それからすばやく地下鉄の階段を降りて行ってしまった。急に一人にされた私は、間抜けな顔で突っ立っていたに違いない。後ろからごつんと肩をぶつけられてようやく我に帰った。

 もう六時だ。それでもまだ暑い。
 気の荒い犬を飼っているすずきさんに、三年前何があったのだろうか。もしかして、あの女のせいで仕事をやめたのかもしれない。
 三年前は自分にとっても思い出したくない時代である。
 当時つきあっていた彼とは、会えない時間が長くなることで喧嘩ばかりしていた。このままではお互い疲れるばかりだからいっそのこと一緒に住もうと切り出すつもりでいたら、別れ話を切り出された。
 その直後に、私のいた部署が縮小されることになった。幾人かがリストラされ、畑違いの部に回された。毎日忙しくしていれば辛いことは忘れるよ、という人がいるけれど、それは辛さが底をついていない人の話ではないだろうか。
 私はいつまでたっても、痛みを忘れずにいた。人と話していても、何をしていても彼のことが頭から離れずに、そう、一度は職場で倒れたこともあった。あれから、どうやってここまできたのか、そのあたりの記憶はあまり残っていない。
 
 早足の人、周囲に聞かせるように大声で話す人、犬を連れている人、食べたり飲んだり酔っぱらったり歌ったりと、それぞれの世界で生きている人がこれほど密集する群集。人波に自分を解き放つと、感情や思考が鍋の縁にたまった灰汁みたいに消えて行く。立ち止まれば鍋はかき回されて、またどっといろんなものが頭の中に戻ってくるようで、私はまた歩き出していた。

 翌週、私はまた同じ道であの女を見かけた。悪魔の顔は思い出せても、身に着けていた服を思い出すことはできないというけれど、私の場合はその逆で女の服装ははっきり覚えていた。あれが唯一のおしゃれなのか、女は同じ青いワンピースに白いサンダルという姿で立っていた。顔は逆光ではっきりしない。

 しばらく見ていると、女は口元のあたりに手を添えて、「こうのさーん」と叫んだ。女の少し前を歩いていた男性が立ち止り、後ろを振り返った。けれど、女は群衆の中に沈み込んで動かない。「こうの」と思われる男性は首を振って、歩き出す。
 女は次々に名前を呼び続けた。名字だけではなく下の名前もあったが、どれもがありふれた名前だった。何人かの男女が振り返り、呼ばれた方向をいぶかしげに見つめて立ち去っていく、その繰り返し。

 本当にどこかの「こうの」や「さいとう」や「ようこ」や「たけし」を探しているのか。そんなはずはない。名前を呼んでは誰かを振り向かせるのがあの女の趣味なのだ。女はざっと十人ほどの名前を呼ぶと、ふいに急ぎ足になってまたあの地下鉄駅へと続く階段を降りて行った。

「検索してみたら?」
 昼休みの公園で、この話を珍しい名前を持つ同僚に話した。
「そういう人って、案外ネットでは有名だったりするでしょ」
「なるほどね。どんなキーワードで検索しよう?」
「青い服の女」
 目をしばたたせながら、彼女は笑った。
「名前を呼ぶ女とか」私も笑った。
 あれこれ検索してみたけれど、女の姿は浮かび上がらなかった。
「あたしはその女に呼ばれないなあ。珍しい名前だから。でも、私ならぜったにいその女を逃さないけど」
 私は黙って頷きながら、空になった弁当箱を巾着に戻した。
「本当に心当たりはないの?」
「ないよ。でも向こうは私のこと知ってるんだよね。すくなくとも名前だけは」
「単にすずきって言ったら振り返ったから、からかったんじゃないの?ねえ、もう一度そこに行ってみようよ。直接話をすれば答えてくれるかもしれないよ」
 私は考え込んだ。あの女の強引な話し方、最後の低い声を思い出したからだ。
「ちょうどそのあたりに行きたかったカフェもあるし。その女の顔、見てみたい」
 強引に、同僚は約束の時間を決めてしまった。

 一週間が過ぎ、私と同僚は話題のオープンテラスでお茶を飲んでいる。ランチのあとのアイスティーを飲みほしても、青い服の女は現れない。

「今日はいないのかもね」
 そう言いかけたとき、女の声がした。
「あ、いま」
 名前を呼ばれたあたりを見回したが、青い服はどこにも見えない。
「ね、いまの聞こえた?」
 私は同僚に興奮気味に尋ねたが、彼女は無関心な顔で首を振るだけだった。
「たしかに聞こえたんだけど…」
「いないよ」
「え?」
「そっちにはいない」
「なにを…」
 言っているのと口にしようとして、気がついた。彼女が青いワンピースを着ていることに。

「あたしは、ここにいるから」
 私は珍しい名前を持つ女の顔をじっと見つめた。

「もしかして、あなたが呼んだの?」
「そうだよ。三年ぶりに会ったのにあんたは気づかなかったね」
「何言ってるの。毎日、職場で会ってるでしょ」
「それは三年前だよ。あたしたち、部署が一緒だったころは毎日一緒に公園でランチしたじゃない。休みの日にもよくお茶したよね。彼氏の話もさんざん聞かされたし、二人そろって営業に回されたけど、なんとかやってた。でも、あんたはだんだんうつろになっていった。あたしが『忙しくしてたらきっと忘れちゃうよ』って言ったら、あんたはそんなわけないってすごく怒ったよね。そのあと、二人でお茶の約束をしたじゃない」
「なにを言ってるの」
「だけど、あんたはこなかった。あたしはずっと群集のなかであんたを待ってた。そのうち、あんたにとってあたしはなんだったのかと思ったら馬鹿馬鹿しくなった。それからあんたは仕事にもこなくなって、人のなかにまぎれて出てこれなくなったって聞いたよ。あんた、あたしの好きだった服だけ覚えてたんだね」

 私は群集のなかに一人だ。私はずっとここに立っていた。

 群集のなかでひとにもまれて、いろんな名前を呼び続けた。

 誰も私と話したものはなかった。

 それでも私は名前を呼んでいた。

 誰かが私の名を呼んでいる。私が私を呼んでいる。私は私の名前が思い出せない。だから私はここから出られない。

 名前が私をつかむ。呼んだからには、理由を聞かせてくれまいか。

 知らないものに名前を呼ばれて、はいそれと立ち去るわけにはいかないという。何も理由なんかないのだ。私はここに絡めとられている。油まみれの群集という巨大な鍋に沈んでいるだけだ。もう一度、鍋の上にあがって息を吸いたい。

 名前を思い出せたらいいのに。

エドガー・アラン・ポー『群集の人』のパスティーシュとして書きました。

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