ジャン・エシュノーズの『湖』

フランスの小説家ジャン・エシュノーズは、いまから25年前、『湖』出版記念のある集まりで、聴衆の一人の質問に応え次のような発言をしている。意味、それは音なのです。これはこの集まりに出席していたハリー・マシューズが後年動画で語っていることだが、質問はあなたの仕事の意味は何なのか、というものだった(本記事は学術的な文章ではないので、煩瑣を避けるためいちいち典拠を示しません)。この場を借りてエシュノーズのこの発言をめぐって思うことを書きつけておきたい。
ところで、エシュノーズの小説を少し読めば気がつくことだが、彼の文章はとても映画的だ。この点作家自身極めて意識的で、詳しくは、拙訳による『1914』(水声社)のあとがきに掲げたインタビュー記事を読んでいただきたい。このインタビューは専ら映像に関するものだったが、エシュノーズは別のところで、自分の文章の音はサウンドトラックの役割を担っていて、半ば冗談めかして、自分の分野は視聴覚だという。
エシュノーズのいう音とはそもそも何だろう。私見では、それは言葉の意味と切り離して考えられるものではなく、その言語を理解しない人間が聴取する音とは違う。もちろんエシュノーズは語の響きを大切にする。『湖』の主人公のひとりに最終的にシュジ―・クレールという名前をつけたのはその響きのためだ(草稿ではアンジュという名前だった)。『1914』では出版されたあと一つの単語が訂正されたが、響きを考慮して、それに先立つ語句の順序が入れ替えられた。ただそれくらいなら、普通の作家でも行なっていることだろうが、エシュノーズの場合この点でも極めて意識的で、言葉の響きだけでなくリズムも大切にする。単にリズミカルであることを目指すのではなく、場合によっては、わざとリズムを中断、崩し、乱したりする。それは、若い時フュージョン系のジャズバンドにバス奏者として参加していたことと無関係ではあるまい。音の響き、リズム、あと速度がある。これに関してエシュノーズはひとつの理論を持っている。使う時制によって文章の速度が違うというのだ。一番早いのは複合過去形、一番遅いのは現在形。そしてそれを使い分けることで文章の速度に変化を持たせることができると言い、文法時制を車の変速機に譬えている。確かに『湖』でも、基調は単純過去形だが、それが急に現在形に変わる箇所がいくつもある——映像化すれば、ズームインしてカメラの動きが遅くなる箇所とでもいえるだろうか。このようにみてくると、殆ど論理的な帰結として、音を大切にする彼の作品を翻訳することには意味がないことになる。実際エシュノーズ自身、あるインタビューで自分の作品を翻訳する人の気が知れないというような言い方をしていた。敢えて翻訳する側からいえば、エシュノーズの作品を翻訳するとは、不遜な言い方になるが、彼がターゲットの言語を自在にできたら同じ話を同じスタイルでどのように書きえたかを想像することだ。
ところで、この作品のなかで様々な音声が喚起されるのは、盗聴がテーマであるだけに当然といえば当然だ。冒頭の電話の鳴る音に始まり、優しい女の声、カーラジオのシャンソン、車のドアの閉まる音、若い娘の笑い声、警笛やサイレン、嘆息、映画の中のヴァイオリン、トロリーバスのくぐもった音、台所の物音、少女の足音、フリッパーの合成音声、タイプライターの「チン」、呼び鈴、配管工場の音、TVの音声、機関車の警笛、ラジオの歌番組、カセットテープの音楽、車のエンジン音、街の騒音、ドアを叩く音、そして、水滴、歯を磨く音、溜息、短い感嘆詞、とハエを使った盗聴の場面に至る。特徴的なのは音を形容する際に、和音、オクターヴ、ピッチカート、十二音、音符といった音楽用語を効果的に使用することだ。最後に、リズムのある、全編の中でも訳すのに苦労した一節を引用しておこう。ショパンは、もう一人の男性主人公で、そう、作曲家と同じ名前。

[…]16区の人目につかない通りの22番地での待ち合わせをショパンに指定していた。赴くために、折れ曲がりによる古典的尾行防止策を適用しなければならないが、相も変わらず同じ茶番だ。で、ほら、メトロの入口でタクシーを乗り捨て、それから別のタクシーで別のメトロに飛んで、ぎりぎりまで待って、ほら、車両に跳び乗り、ドアが閉まる直前に、ほら、ホームに跳び下りる、で、入口の二つある建物を通り抜け、また反対方向に通り抜け、それからもう一つの建物、またタクシーに乗って50メートル手前で降り、人目につかない通りに息も絶え絶えに這う這うの体で辿り着くが、こんなことが何の役にも立たないことは確かだ。

追記
ジャン・エシュノーズの$${\textit{Lac}}$$(湖)は2024年2月17日現在邦訳が刊行されていません。

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