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ピアフとして生まれたのではなく...

エディット・ピアフは生まれながらの天才歌手だ、歌姫(ディーバ)だと言う人がいる。
もちろん、あの独特の声を含め歌手になる素質は充分あったのだと思う。でも、シモーヌ・ボーヴォワールが「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。」と言ったように、彼女はピアフとして生まれたわけではない。

恵まれた家庭環境ではなかった

エディットは、父親が大道芸人、母親がカフェの歌手の家に育った。アーティストの一家だと言えばそうなのだが、音楽や声楽の基礎を学ぶような家庭環境とはとても言えなかった。しかも、いつも貧困がつきまとった。
ストリート・シンガーと言えば聞こえがいいが、楽器の伴奏はなく、生歌を披露するだけだった。歌いたかったというよりも、お金を稼ぐために已む無く歌ったと言った方が正しい。

路上でスカウトされたものの…

でも、エディットには運があった。
彼女が歌っているところにナイトクラブのオーナー(Louis Leplée ルイ・ルプレ)が偶々通りかかり、スカウトされたのだ。オーディションを受けに来いと。
ただ、これで偉大な歌手への道が開けたわけではなかった。
この段階では、ナイト・クラブの前座歌手としてデビューできそうだ、という程度の展開だ。
この時点で、エディットはまだスターになろうとまでは意識していない。取り敢えず生活費を稼ぎたいと思っていたに過ぎない。

Raymond Asso との出逢い

ナイトクラブの前座歌手としてモーム・ピアフというステージ・ネームを付けてもらい少しお金を稼げるようになった。ただ、歌っても、観客から賞賛を受けていたわけではない。ピアフという名前はもらったが、まだピアフになってはいなかった。
そうした矢先、恩人のルイ・ルプレが何者かに殺害されてしまう。
途方に暮れるエディットは、「何か助けが必要だったら、私のところを訪ねなさい」と名刺を貰っていた作詞家のことを思い出した。
それが Raymond Asso(レイモン・アッソ)で、彼のもとで本格的な歌手修業が始まるのだった。アッソと一緒に活動していたピアニスト・Marguerite Monnot(マルギュリット・モノ)の伴奏で練習もできた。
まだ、彼女には運があった。

マリー・デュバで目が覚めた

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