十川ジャンマリ

音楽ライター(日本音楽家ユニオン所属) シャンソン・日本歌謡を中心にコラムを書いており…

十川ジャンマリ

音楽ライター(日本音楽家ユニオン所属) シャンソン・日本歌謡を中心にコラムを書いております。

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誰も知らない「フランシーヌの場合」

新谷のり子さんへのインタヴュー SNSを読んでいて、あるシャンソン歌手の方が「フランシーヌの場合」を歌ってみたが未だマスターできていない、というような趣旨の投稿をしていた。そして、新谷のり子さんと知り合いであることを示唆する一節を見つけた。「うん?これは、もしかしたらチャンスが訪れたかもしれない。」と私は思わずほくそ笑んだ。ずっと前から新谷さんにインタヴューする機会を窺っていたからだ。 この歌が流行った頃、私は未だ小学6年生で意味はわからないまま、テレビで聞こえてくる歌謡曲

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    • これじゃ、フリマか学園祭模擬店だ!

      渋谷の駅前開発がかなり進んできた。 オフィスとショッピング・モール、つまりビルばかりの街に完全に生まれ変わろうとしている。 私が大学生だった1970年代の後半、渋谷駅周辺にはもちろん西武やパルコはできていたが、個人が経営する商店や飲食店が多くあって、それぞれの店はいろんなアイデアに満ち溢れていて個性的で面白かった。 ショッピングモールやテナントビルには、大手企業のチェーン店が入っており、渋谷でなくても新宿でも池袋でもどこでも同じ店があるので地域の特性が出ないし、味気なくて興味

      • sayonara 日本を歌ったシャンソン

        1969にリリースされたエルヴェ・ヴィラール(Hervé Vilard)の sayonara を今回はご紹介します。 では、先ず歌をお聴きください。 sayonaraHervé Vilard Je vais quitter ton jardin de fleurs en papier Plus jamais nous n'irons pêcher avec les cormorans Je t'ai laissé mon nom sur l'abricotier En p

        • シャンソンの毒気 : Mon légionnaire

          私の印象では、日本語シャンソンはサラリとし過ぎていて、やや面白みに欠けている。日本語詞に変換する段階で灰汁が取り除かれて、まるで抒情歌のようになってしまっている。 シャンソンには、実はもっと毒気がある。グロテスクなところもある。 そんな真の姿を皆さまにご紹介したい。 初回は、こちらのシャンソンで… Mon légionnaire 愛しの兵隊さん  Il avait de grands yeux très clairs Où parfois passaient des éc

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        誰も知らない「フランシーヌの場合」

          西條八十の美空ひばりへの想い

          西條八十は50代後半に美空ひばりと出逢い、亡くなるまで彼女を見守り続けた。その類まれなる才能を少女の頃から見抜いていたし、大歌手になることを予感していた。 撮影所での出逢い 1950年、西條八十は「やまのかなたに」という映画の主題歌を依頼され、新東宝の撮影スタジオへ打ち合わせに出掛けた。帰る途中に友人の柳谷金語楼が主演の「向こう三軒両隣り」の撮影現場を通りかかった。ちょうど休憩時間で、セットの隅に小学生くらいの女の子が腰をかけていた。 「お嬢ちゃん、金五郎劇団の子かい?」

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          西條八十の美空ひばりへの想い

          「名残りを惜しんで」の元歌

          新宿のシャンソニエ「シャンパーニュ」でエンディング・テーマにされている アダモ(Salvatore Adamo)の Que le temps s'arrête を今回はご紹介します。日本語歌詞と内容が違っています。 では、先ず歌をお聴きください。 Que le temps s'arrêteSalvatore Adamo Détourne-toi, ô souvenir Tu es un bien triste convive Rentre chez toi, mon av

          「名残りを惜しんで」の元歌

          名前から読み解くシェルブールの雨傘

          嘗てフランスでは子供が生まれると、聖人の名から選んで名前(prénom)を付けることが多かった。マリー(Marie)と言えば聖母マリアだし、ポールと言えば聖パウロという風に。 日本人にはピンと来ないかもしれないが、それぞれの聖人には守るべき場所や事柄がある。例えば、日本の守護聖人は聖フランシスコ・ザビエルで、医者・薬剤師の守護聖人は聖コスマスと聖ダミアンの兄弟という風に。 今回は、名前(prénom)から映画「シェルブールの雨傘」の物語を読み解いてみたい。 ジュヌヴィエーヴ

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          名前から読み解くシェルブールの雨傘

          シャンソンとフランス語と 3月30日

          毎週土曜日の午前中にシャンソンの歌詞でフランス語を学ぶオンライン講座を開催しております。 今回は、 の Ton héritage(君への遺産) を解説します。 この歌は、Serge Gainsbourg の継承者と言われる Benjamin Biolay の2009年の作品です。自分の子供に語り掛ける歌詞になっていて、1970年代のシャンソンを思わせるメロディにのせて歌っています。 では、先ず歌をお聴きください。 そして、テキストをご覧ください。 Ton hérita

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          ピアフとして生まれたのではなく...

          エディット・ピアフは生まれながらの天才歌手だ、歌姫(ディーバ)だと言う人がいる。 もちろん、あの独特の声を含め歌手になる素質は充分あったのだと思う。でも、シモーヌ・ボーヴォワールが「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。」と言ったように、彼女はピアフとして生まれたわけではない。 恵まれた家庭環境ではなかった エディットは、父親が大道芸人、母親がカフェの歌手の家に育った。アーティストの一家だと言えばそうなのだが、音楽や声楽の基礎を学ぶような家庭環境とはとても言えなかった

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          ピアフとして生まれたのではなく...

          作詞家・作曲家と流行歌手の蜜月期間

          エディット・ピアフの晩年には、いろんな作詞家・作曲家が自分の歌詞や曲を売り込みに自宅を訪れたと言う。 お金のためだけではない。あのピアフに自分の作ったシャンソンを歌って欲しいという想いが強かったからだ。 昭和の歌謡曲の場合は、芸能事務所やレコード会社などが新人歌手をどのような形で売り出すか企画していたので、新進の作家(作詞家・作曲家)が自ら売り込むのは難しかったかもしれないが… 前置きはともかく、同じ作家が流行歌手のために歌作りをした期間(年月)について今回は書いみたい。

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          作詞家・作曲家と流行歌手の蜜月期間

          シャンソンとフランス語と 3月23日

          毎週土曜日の午前中にシャンソンの歌詞でフランス語を学ぶオンライン講座を開催しております。 今回は、George Moustaki の Le temps de vivre を解説します。 この歌は、ベルナール・ポール(Bernard Paul)の1969年の監督作品「生きる時代」のエンディング・テーマでした。映画は売れなかったのですが、ムスタキのシャンソンの方は大ヒットしました。 では、先ず歌をお聴きください。 そして、テキストをご覧ください。

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          ビートルズ来日は「黒船」だった

          東京オリンピックの翌年(1965年)、日本でエレキブームが巻き起こった。ベンチャーズやアストロノウツのサウンドはインストゥルメンタル、つまり歌がなく演奏だけだった。 いろんなところで、テケテケテケというエレキギターの音が聞こえていた。 小学生だった私も映画館で「エレキの若大将」を観て、カッコいいと思っていた。寺内タケシが登場するシーンが印象的だった。 当時放送作家だった阿久悠は、日本テレビの笈川光則、ホリプロの堀威夫、ザ・スパイダースの田辺昭知ら3人の依頼で「世界へとび出せ、

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          シャンソンとフランス語と 3月9日

          毎週土曜日の午前中にシャンソンの歌詞でフランス語を学ぶオンライン講座を開催しております。 今回は、Gloria Lasso の Amour, Castagnettes et Tango を解説します。 スペイン内戦などでパリに逃れてきたグロリアは、1950年代に活躍しました。シャンソン・ファンの皆さまには、彼女が歌ったボン・ボアヤージュをご存知だと思います。

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          日本歌謡:1978年の転換点

          Apple Music のプレイリストに「邦楽ヒッツ:〇〇年」というのがある。何気にその1977年を見たら、阿久悠が大活躍の年だとわかった。 22曲中7曲(勝手にしやがれ、渚のシンドバッド、津軽海峡・冬景色、青春時代、熱帯魚、北の宿から)を作詞している。 ところが、翌1978年を見ると、阿久悠・作詞は23曲中2曲(UFO、ヤマトより愛をこめて)しかない。 このことをどう捉えればよいのか? 今回は、少し考えてみたい。 作家の時代の終焉なのか? どうもこれは、阿久悠個人の問題

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          Barbara の Mon enfance(子供の頃)

          シャンソンの場合は、歌詞を読んだだけではその歌の真意が理解できないことが稀にある。本来は歌詞が全てを言い表すものなのだが、数奇な人生を歩んだ人が自分の過去を打ち明けるような歌詞を書く時は、行間にいろんな意味が込められていて、評伝と一緒に読んだ方が理解度が深まる。 そこで、今回は、Barbara(バルバラ)の Mon enfance(子供の頃)を Marie Chaix が書いた評伝 "Barbara" とともに読み解こうと思う。 車を止めて、或る街に降り立った この歌は、

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          三島由紀夫から見た越路吹雪

          1950年代にことであるが、結婚するんじゃないかという観測記事が雑誌に載るほど、三島由紀夫と越路吹雪は仲が良かった。 1953年9月、日劇で行われた越路吹雪帰国公演「ボンジュール・パリ」に三島は寄稿文を書いた。 日本人のシャンソン観について 越路吹雪のことを語る前に、三島は当時の日本人が持っていたシャンソンに対する間違った捉え方につき痛烈に批判している。 「日本では、シャンソンが一寸シックで高級だという偏見がある。」 この偏見は現在にまで続いているのではないだろうか。

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          三島由紀夫から見た越路吹雪