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新型コロナ禍において恕を考え直す必要性

「恕(じょ)」とは、読んで字の如(ごと)く、心の如くというと意味です。見た目は似ていますが「怒」ではありません。心の如くとは、相手の心の如く相手の立場で物事を考える、つまりは自分の心であるかの如く相手の心を考えるということになります。

この「恕」は、儒教において人が常として備えるべき5つの徳目である「仁義礼智信」の中の一つである、「仁」の徳を構成する要素の1つとされています。「仁」とは、思いやりの心、慈悲の心のことです。「仁」は、「忠」と「恕」によってつくられるとされており、どちらも思いやり心につながる徳ですが、心を向ける方向が異なります。

「忠」は、簡単には忠実や忠義、忠誠などの言葉として使われるように、自分よりも目上の立場の人に対して向けた思いやり心の事です。他方で、「恕」とは同じ立場の相手や自分よりも目下の立場の相手に向けた思いやりの心の事です。

さて、昨今においては新型コロナ禍の影響もあり、私たちはこれまで以上に様々な問題に向き合うことが多くなりましたが、私たちが向き合う問題に対しては、先ず

① 事実を明らかにした上で、
② 事実を解釈し解決策を考え、
③ 解決策の実行をしなくては、

問題が解決される事なく山のように蓄積されていくだけになってしまいます。私たちが先ず行わなければいけない①「事実を明らかにする事」だけでもとても難しい事です。

例えば、あなたの右の手のひらを見てみて下さい。

Q. 今指は何本ありますか?

恐らく大半の人は5本あると思います。ヤクザな人は少なくなっていることもあるでしょう(笑)。それはさておき、では今度はあなたの右の手のひらを右の親指の方から見てみて下さい。

Q. 今指は何本に見えますか?

そうです!!素直な心のあなたには1本に見えますね!!ひねくれたあなたの心には3本にも5本にも見えてくることでしょう(笑)。

つまりは、5本の指がある右の手のひらという事実に対して、それを見る人の角度や心の状態によって、指の本数は変化して見えてしまうということです。このように自分自身が事実を事実として認識するだけでも難しいことであることを知っておかなくてはなりません。自分にとって難しいことは他人にとっても容易ではないことを理解した上で、事実認識の時点で相違があれば、その後の解釈も実行も無意味なものになってしまうことを了知しておかなればなりません。

その上で、目の前にある問題を解決に繋げる為には、②「事実を解釈し解決策を考える」必要があります。
そして、考えているだけでは何の問題解決にもなりませんので、③「解決策を実行に移す」ことが必要になります

先述した、①②③のプロセスの中で②の解釈に関しては、人それぞれが異なる脳を有するように、脳での思考を必要とする解釈も人それぞれで異なってきます。仮に自分が抱える問題に対して、自分で事実を解釈し考えた問題解決策は、客観的な自己認知につながり有効な解決方法になることが多いと言えますが、残念ながらこれだけでは様々な要素が複合的に入り混じった問題を解決する事は出来ません。

例えば社会問題などに対しては、異なる視点からの解釈も不可欠になります。自分自身の①②③をきちんと考えた上で、自分とは異なる別の立場の人の視点である①②'③'考えなくてはなりません。具体的には、同じ①という事実に対して、自分ならば②のように解釈するが、Aさんならば②'と解釈するだろうと考える必要があるということです。そして解釈が②と②'で異なれば、当然のことながら解釈からの解決策や実行方法も③と③'のように異なってきます。

更には社会はあなたとAさんのみによって構成されている訳ではありませんので、あなたと異なる②③は、社会を構成する人の数だけ存在することになります。自分と異なる解釈をする為には、最初に述べた「恕」が必要になります。

Q. 恕の意味を覚えていますか?思い出してください。

「恕」とは、思いやりの心に帰結する相手の立場になって考えるという意味です。

更に質問です。

Q. 仮にあなたが国民の立場であり、総理の立場を考えるならば、それは「恕」ですか?

A. それは「恕」ではなく「忠」になります。

Q. 仮にあなたが総理の立場であり、国民の立場を考えるならば、それは「恕」ですか?

A. それが「恕」になります。

「忠」も「恕」も、「仁」の徳を構成する大切な構成要素ですが、私は「忠」よりも「恕」の方がより大切であると考えています。論語の中においても孔子は弟子の子項から

「このひと言なら生涯守るべき信条とするに足る、そういう言葉はありましょうか」

と尋ねられたとき、孔子は

「それ、恕(じょ)か。己の欲せざる所は人に施すなかれ」

と答えています。

新型コロナ禍のみならず、私たちが生きていますと幾度も窮地に直面するものですが、「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず(易経)」であり、今一度、「恕」というものを考え直すこともまた「変ずる」一つの行動であると私は考えます。私たちが直面する窮地とは、天が私たちが成長するために与えた一つの試練であると捉えることが可能であり、私たちが共に変化し進化すべき契機であると言えるのではないかと浅学非才の身ながら私は考えます。


※こちらは2021年8月20日(金)のnakayanさんの連続ツイートを読みやすいように補足・修正を加え再編集したものです。

中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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