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我が子


 一年の間に、真中克彦は三つの奇跡に遭遇していた。
 滞在先の名古屋で彼をダマして利用しようとするマツイの悪意を遠ざけ、不思議のメダイとの邂逅を果たした最初の奇跡。コーヒーに入れる砂糖の量を減らして体重を落とさせ、治療法がわからない原因不明の皮膚病が治った第二の奇跡。そして、契約の証として内股にひし形のクロスを浮かばせ、会社再建に必要な融資が叶った第三の奇跡である。
 マツイらが設立した名古屋の会社は、主導権をめぐる内紛が絶えなかった。裁判沙汰になっていると、真中が知ったのはこの頃である。
 あのままマツイとのプロジェクトを進めていたら、不毛なトラブルに巻き込まれたあげく、損害賠償まで請求されたかもしれない。三つの奇跡は結果的にではあるが、シスター・アン粟津やカトリック関係者が色をなしてありえないと否定する「現世利益」そのものだったのである。
 七月下旬のある日、いつものように、孫のカツヤが京都からやってきた。夏休みになると決まってリュックサックを背負い、真中夫妻の自宅で数週間を過ごすのだ。高校生のカツヤは野球部のレギュラーで、ホームランも打てる俊足好打のトップバッターとして活躍している。真中はこの孫を特別に愛し、もっともいとおしく思っていた。
 カツヤはわたしの子でもある。孫の顔を見るたび、真中はそう思う。例え話ではない。彼にとっては孫であり、実の子。
 新二郎――
 幼くして亡くなった「我が子」の泣き顔を思い浮かべ、真中は心の中で何度も詫びた。父さんを許しておくれ……。

 克彦は両親と妹の四人家族で育ち、七歳年下の妹が生まれるまでは母にしがみついて離れない甘えっ子だった。母親は母親で、子離れができず、父親が四十歳を過ぎて、軍隊に徴兵された夜には、息子を抱きしめてささやいた。
「だいじょうぶ。いい、わたしたちには一生を楽に暮らせるほどの貯金があるの。なにも心配しなくていいのよ」
 母親は体をふるわせながら、事情もなにもわからない息子に涙で濡れた頬を押しつけていた。
「一生楽に暮らせるほどの貯金」は、その二年後に日本が戦争に負けると、一瞬でただの紙クズと化した。父親は生きて戦争から帰ってきたが、ひとりっ子同然の結びつきがその後も続いた。
 小学生から中学生へと成長するにつれ、克彦は母の愛情をうとましく感じるようになっていた。
「早く好きなひとと結婚して、男の子をたくさん作りたい。できれば九人にして野球チームを作り、監督をやりたい」
 妻と出会ったのは、克彦が高校二年生のときだ。母親が通っていたダンス教室に、やはり母親に連れられた、中学校三年生の妻がいたのである。二歳年下のとても可愛らしい、目に力がある少し大人びた美少女だった。
 克彦のひと目惚れだった。ふたりはすぐに付き合いはじめた。
「働いて一緒に暮らす。もう大学には行きたくない」克彦は両親の前で言い張った。
「いっしょに暮らすのはかまわない。ただし、大学には進学しろ。きちんと卒業したら、結婚を認めよう」
 結婚を認めてもらうために大学へ進んだ。在学中に長男が生まれ、玉のような子供を得意げに抱いたまま、克彦は晴れの卒業式に出席した。

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