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コンドーム自販機と社会と私2 ~ 淘汰のその先

コンドーム自販機が路上から無くなったのには、コンビニの台頭があると言う。しかし今ではコンビニよりもAmazonの存在の方が大きいだろう。何かを買うついでにコンドームも一緒にポチればいい。本当に便利だ。この便利さと引き換えに路上や街から何が消えていっただろう。何かが無くなると嘆く人は多い。人間は変化が苦手な生き物だから仕方ない。だけど私はコンドーム自販機が無くなって行くのに折り合いを付けられていないが、悲観はしていない。コンドーム自販機を残したその先と、無くなったその先を考えてみよう。

コンドーム自販機を残すには、誰が管理しなくてはならない。コンドーム自販機が残れば誰かの役に立つ。しかし役に立つ確率に対し、管理の負担が大きすぎる。管理するのは人だ。コンドームを買う方法はたくさんあるのに、コンドーム自販機を管理する人の時間と労力を使い続けていいのだろうか。
残したいと思う人々はいつか死ぬ。私はその人が死んだ後に、生きている人を縛るのは好きではない。今生きている人には、死んだ人の意思よりも、生きているあなたが今をより良く生きて欲しいと思う。

コンドーム自販機に限らず、物事には必ず終わりがある。私は終わりがあるから次が始まると思っている。
かつてコンドーム自販機があった土地には、どこにでもあるチェーン店が建つかもしれない。あるいは、おしゃれさを纏い個性的を演出した、やっぱりどこにでもある店が建つかもしれない。
きっと都会の会社が作った、どんなにシンプルでおしゃれで素敵に見えるものでも、使い続けると、注意書きが貼られたり、テプラが貼られたりする。その注意書きの文字や文章からは、人間味が溢れ出す。たくさんの注意書きに現れる「いらすとや」のイラスト。日本中にあのイラストが溢れるなんて誰が想像しただろう。
注意書きは使い手のレジスタンスとも言えるかもしれないし、テプラと「いらすとや」はジャンヌ・ダルクと大袈裟に言ってもいいかもしれない。
きっと私は人々が作った注意書きに自分なりの楽しみを見つけ、クスッとする。

無くなったことにより、誰かの時間と労力が解放されるならそれでいいし、どんなに表面を整えても、そこからはみ出ちゃう誰かが必ずいる。それでいいんじゃないかなと思う。
私は社会にあっても無くてもどっちでもいい、今のコンドーム自販機の存在が好きで、全く意味もなく役にも立たないコンドーム自販機巡りを続けている。

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