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DISCO TEKE-TEN 準備中

 1985年昭和60年の6月か7月。西麻布の交差点にあった天下一というラーメン屋。時間は多分深夜だったと思う。桜井とジョージの3人で六本木の長崎物語という仮装ディスコのバイト帰りだったか、328で飲んだ帰りだったかは忘れてしまった。記憶を頼りにこの話を書くが、曖昧な部分は今後仲間に直してもらわないとならないかもしれない。当時学生ツアーというのが流行っていて僕と桜井はそこのスタッフだった。女子大の前で旅行のパンフレットを配り、申込数に応じて斑尾などの避暑地、沖縄、伊豆七島などの離島へ、添乗員として旅行に行けるという、お金は全部自分で生み出さないとならない超ブラックな集団。元は関西で始まって、ナッツベリーというグループが東京に進出。サークルの合宿パックで儲けていた北関東ツーリストという旅行代理店と組んで代々木でスタートさせた。後で聞いた話だと、その時すでにナッツは、1000万ほどの供託金を持て来て、これで事務所と電話と旅行業の免許を貸してくれと言ったらしい。その数日後、同じ北関東ツーリストに、金はない。スタッフもまだいない。でも電話と事務所を貸してくれと、同じく大阪からやってきたのが田中さん。で、俺らは3期目か4期目のスタッフとしてこのお金のない方の、ワンダーウッドチャックというグループに騙されて入った。そんなグループで旅行先の店にお客を連れていき、一人500円とかのキックバックをもらって沖縄本島、与論、新島、志賀高原、斑尾高原で生活する。というのが夏と冬の生活パターンだった。初期メンバーも大学を卒業して就職していなくなり、古参メンバーはお金に細かい並木さんのみになったので、だんだん方向性のずれが生じて俺たちはクラブパーティとかに注力するようになった。
 話が外れ過ぎた、、まあ、ということをやっていたので、いつもお客を連れて行くばかりで、今度は旅行会社に客を連れてきてもらう側をやりたいよね。と天下一で桜井がぼそっと言った。そうしたらジョージが
「いいとこあるよ!俺去年の夏に、久米島のホテルでバイトしてたんだけど、そこのビーチハウスいい感じだよ。話できるよ。」
 それはいいじゃんと盛り上がり、アホだけど行動力だけはあった俺たちは、裏も取らずに渋谷のスペイン坂のcafeの店長のよっさんに声をかけ、即行動開始。桜井がフジテレビの、公開収録番組の客の仕込みで儲けた金と、当時少しデザインの手伝いをさせてもらっていた、赤坂の「バージョン」というアクセサリー会社に協賛してもらって、必要な機材や材料酒などを購入。ジョージのバイトしていた渋谷の「摩訶不思議」で知り合った、タカヒロとオヤジ(最年少だが老け顔なんでオヤジというあだ名)、それとヨコちゃんという若手3人が手伝いたいというので即採用。金はないので先にフェリーで3日がかりで久米島に出港。そして桜井とジョージが先に現地入り、俺はポスターなどの制作物の仕上がりを待って後乗り込みが決まった。桜井たちの準備が終わって荷物を運んで空港に早朝に到着、当時はJALも全日空も沖縄まで、そこで乗り換えて南西航空という飛行機会社で、離島に向かうというルートだった。カウンターで荷物を預けると酒や機材で、重量超過5万円近くと言われ愕然とする。そんなことも気づかず荷物持って意気揚々とカウンターにいるのも全くアホだが、その時初めてそれを知ったのだからしょうがない。交渉しようにも、どうしたらよいか、、。全員重い空気が流れる朝のカウンター。ふと、ジョージのチケットを見るとスペルミスでGerogeと印字されている。
「ジョージ、お前の名前間違ってんじゃん。ゲロゲになってるよ、」
「最悪だ、もし飛行機落ちたら乗客名簿のNewsでゲロゲって読まれるよ。ゲロゲ、ゲロゲ。」
と爆笑していたら、カウンターの担当者も平謝り。これはチャンスと交渉開始。
「僕ら沖縄でお店やるんで、この荷物が必要なんですけど、超過料金払えないんで、これから御社の飛行機で10人くらいスタッフが沖縄に渡るのでその人数でこの重さ割ってもらえませんか?」
いまでは考えられないことだろうけど、この頃は航空会社もおおらかで、名前間違ったのもあるので、とOKしてくれて超過料金は払わずにすんだ。その一つ目の奇跡によって、無事に桜井とジョージは久米島に飛んだ。

 制作物の校正をしながら、桜井からの電話を待つ。翌日沖縄から久米島に渡った桜井からの電話が、よっさんの店で鳴った。(携帯はまだない。) 「マサリン(というのは俺のこと)やばいよ、なんにもない島だよ。ジョージの言ってる場所もホテルの中庭で、そんなとこ貸してくれないよ。とりあえず、ビーチを仕切っている人たちにあったから話をしてみるけど、そもそも客もいないし、、、。」 聞くと、飛行機を降りた瞬間からあまりの何もなさに悪い予感がして、それでもとりあえず空港とは島の反対側のイーフビーチホテルに向かった二人。ちょっと考えればわかりそうなものだが、一夏バイトしただけの若造にホテルの施設を借してくれるわけもなく、当時は与論島や新島が全盛の時代でまだブレイク前の久米島はシーズン前ということもあり観光客もまだそこまでいない島だった。 船で向かった3人と合流した桜井は、とりあえずなんとかしないとということでビーチを仕切っている富田(仮名)さん一家にお世話になり、住み込みでビーチパラソルやマリンアクティビティの手伝いをしながら店のできる場所を探すことにしたらしい。内地から来たおもろい奴らということで、気に入られた桜井は、幹部の方たちに飲みに連れていってもらい、久米仙という地酒の洗礼を浴びながら店の相談を頑張ってくれていた。 3日後、荷物を持って久米島空港に降り立った俺だったが、電話の情報通り何もない島。それが当時の久米島だった。空港の外にはすでに日焼けした桜井が立っていた。すでに数日ビーチで働き頼もしい感じの桜井と、日焼けしてない真っ白で細い俺。さあどうしたもんかと作戦会議。まずはビーチに向かい、みんなの顔を見る。店をやるつもりで船で来たのに何故かビーチでパラソルの穴を堀らされてる3人とジョージは、それでもなんか楽しそうに仕事していた。頼もしいやつらだ。ビーチテントの富田さんに挨拶して、島を回って雰囲気を感じることにして、良さげな物件がないか見て回った。あまりに明るくて暑くて、珊瑚の砂で白い島の道は日差しを浴びて、光と影のコントラストが凄すぎてモノクロームの映画を見ているようだった。 その夜、シェルルームというスナックに呼び出されて、俺も久米仙の洗礼を浴びた。ただ、そこでいい情報をもらった、八潮という潰れたキャバレーがあると、そこのオーナーは紹介できるという話だ。早速翌日に紹介してもう約束をして久米仙を一気飲みした。

 翌日紹介してもらいに潰れたキャバレーに向かうと、表通りから路地を入ったところにその店はあった。「キャバレー八潮」。潰れたキャバレーのオーナーはその建物の奥に住んでいて、山に農薬を散布する仕事をしているらしい。ちょっとというか、かなり変わった人という前情報をもらっていたが、実際に会うと確かに偏屈そうなおじさんだった。早速店を見せてもうビニールのソファーが並び、なんとミラーボールもあるし、簡単な厨房もあって、ボロボロだけど設備的には最高だった。これを二つ目の奇跡と呼ぼう。1985年の久米島を知っている人ならわかると思うが、こんな設備の潰れた店が存在するというのは、他にそう言った娯楽系の店は何もなく、これを奇跡と呼ばずしてなんというのか。 しかし家賃交渉を始めるとおやじは月30万と言い出した。久米島のこの潰れた店が30万!3万の間違いじゃないの?と耳を疑ったが再度聞いても30万だという。ちょっと時間もらって外で会議。「いろいろ仕入れもしなくちゃならないし、そもそも30万も残ってないよ。」と桜井。高いしやめるという選択肢が頭をよぎるが、ここ数日島のいろいろなところを見て、こんな場所は他に絶対にないとも思う。考えた末こうすることにした、シーズンはいつまでかわからないから、1ヶ月は借りないかもしれない、なので1日場所代を1万円払う。夕方に1万円払って店を開けさせてもらう。払えなかったら店は開けない。これでどうだと、俺たちは交渉した。するとちょっと考えた八潮のおやじは、店は12時まで、それ以降は電気代がかかるからクーラー付けないならOKだと。その上プラス1,000円で車も貸してくれるという、農薬を山に撒くための薬品くさいボロボロのハイエースだったが、足のない俺たちには客の送迎車にもなって大助かりだ、ただ車に行くとナンバープレートが付いてない。 「おじさん、ナンバーついてないよこの車。」というと 「引き出しの中に何枚か入ってるから、適当につけとけ。」言われた引き出しにはナンバープレートが数枚。結局前と後ろのナンバーの違う送迎車が完成した。薬品臭いその車は背部のドアを開けっぱなしにしないととても乗れなかったから、どのみち後ろのナンバープレートはいらなかったけれど。

 こうして敷金も契約も無しの賃貸店舗が、スタートすることになった。翌日合流したよっさんを含めチームを2つにわけ、半分は開店準備、半分はビーチで住み込み無償ボランティアの生活がスタートした。開店準備チームは掃除や内装作りや仕入れ等、(営業時間以外はクーラーがかけられないので、いま思えばよく熱中症(そんな言葉なかった)にならなかったと思う。)ビーチチームは、東京から来たよそ者が島の人に嫌われないように顔を売り、パラソルを立てるお客を店に誘う営業担当として夕方まで働き、夜はみんなで店の準備という日が数日続いた。壁にアルミホイルを貼ったり、看板を作ったり、まさに手作りでの準備が続いた、暑さの中偶然タカヒロの知り合いの女の子4人組が、店の目の前の民宿に泊まっていて、夜は部屋で涼ませてもらって、床で寝させて貰ってすごく助かった。知り合いが目の前の部屋というのも奇跡だろう。 仕入れでは、まず久米島にジンジャエールが売っていないということがわかった。当時はモスコミュールというカクテルが大流行りでウオッカをジンジャエールで割るモスコミュールはDISCOをやろうとしている俺たちにとってマストのアイテムだった。結果本島から仕入れてもらうように酒屋に頼んでなんとか手に入れることが出来た。だから久米島にジンジャエールを紹介したのは俺たちということになるだろう。今のような流通システムがない時代、amazonも当然ない。簡単にいろいろな物が入らないそんな時代だった。次に店の売上を預金するために銀行口座が必要だったが、当然都銀の窓口などなく、琉球銀行に口座を作りにいった。文房具店に行ったが俺の苗字のハンコは売っていなかったので、一通りみると「波平」というハンコが、お!なみへいじゃん。とそのハンコを持って銀行へ行って、波平真人で口座を開設。これも今じゃありえないよね。読み仮名をナミヘイマサトと書くと、「ナミヒラではないのですか?」と窓口のお姉さんに聞かれたが、ナミヘイでお願いしますとそのまま口座開設。窓口から「ナミヘイさーん。」と呼ばれ「なんだ舟。」と心の中で言いながら窓口に向かった。 店の名前は「DISCO TEKE-TEN」関西の高座はちゃかちゃんにんちゃんちゃんにんでんでん。で始まるが、関東はテケテンテンテンで始まるのでTEKE-TENにした。みんな意味わかってなかったけど。

 そしてついにOPENの日がやってきた。

続く。

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