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フルーツ屋のおやじ

エスカレーターから見た、ほんの一瞬。

おじさんのほっぺたは、そこに並んだフルーツのように艶めいて、まるい瞳は小学生の男の子のようにきらきらしていた。

客を呼び込むために発せられた声は中年のそれであり、お世辞にも可愛らしいとはいえないけれど、そこには力がこもっていた。こめようとしなくても自然にエネルギーが吹き込まれるというふうだった。おじさんから手渡されたフルーツのデザートを受け取った小さな男の子は顔全体で笑っていた。おじさんと同じ、幸福に満ちた笑顔。フレッシュで色鮮やかなフルーツが2人を笑顔にしているのか、人間が丁寧に扱っているフルーツだからつやつやと輝いているのか。とにかく、相互作用みたいなもので、ショッピングモールのフルーツショップは、光を放って輝いていた。

ほんとうにフルーツが好きで、その仕事を愛していて、だからそんなに嬉しそうに、楽しそうにその場にいられるのか、実際のところはわからない。それでも、おじさんが経済のためにしかたなくフルーツを売っているというようには全く見えなかった。品物として並ぶ濃い色の果実を、まるで赤ちゃんでも扱うかのように愛おしそうに触れるときの、すこしだけ上がった口角。いいことがあったけれど、素直に喜ぶのはちょっと恥ずかしくなってきた年頃の男の子が、こらえきれずにはにかむときみたいな。訪れた客たちに、自信を持って勧める姿は、温かく、勇ましい。自慢の商品たちに引けを取らないおじさんの肌つやと血色のよさは、天職という言葉を彷彿とさせた。

外国の、海岸沿いの街を訪れたときのこと。空港を見回る警官と、その空間をクリーンに保つために清掃をしている係の人が複数行き交っているのを見かけた。他職種同士の彼らは、すれ違いざまに気軽な挨拶を交わしていた。強く印象に残ったのは、その瞬間の強烈に明るい笑顔だ。今日たまらなくいいことがあった、もしかしたらそうかもしれない。でも、そうとも限らない。滞在中に何度でも見かけたシチュエーションなのだから。笑顔でハンドサインを交わしてすれ違うだけのときもあれば、立ち止まって雑談を交わす場面も見られた。生き生きしている、とも、楽しくてしかたがない、とも違う、力の入りすぎない自然な居心地の良さを感じた。ラフで、気軽で、カジュアルで、なめらかな、窓から入ってくる初夏の風のような。

人々が、心地よさそうに過ごしているのを見るのが好きだ。

のびのびとして、深く息をして、穏やかな表情で。

信念でもって命を燃やして、存在ごと懸けて闘うみたいな真剣な姿もたまらなく好きだ。

きっとみんないつでも、そうは見えなかったとしても、生きるってことは真剣で、必死で、切実で、哀しいくらい一生懸命。どうあることが心地よいのか、なにを選択することで、想う世界に繋がるのか。毎秒ごと、真価を問われる。

働く人々の近くにありたい。その羽をのばす、明るくて開けた場所をいつでも創出できるようでありたい。地球上のどこであっても。






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