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猫、万華鏡、ゆでたまごの磁石

最愛の動物が病床に伏せたのは先月のことだ。

長い毛とふくふくとした体つき、まるい目と長い長いひげ。すっかりと痩せてしまったのに、やわらかい毛がそれを感じさせないのがかえって悲しさを誘う。危篤状態を脱した愛猫は、身動きの取りづらい体勢のままかすれた声で返事をする。死ぬ瞬間までは生きているから、これまでと変わらずに命の熱を感じていたいと強く思った。

文章に起こすかどうか迷ったが、今この時にしか感じられないことが多くあり、あっという間に次のシーンに移ってしまう映画のように時の経つのは速いから、心境の記録として書くことにした。たいていの場合それは、こんなふうに思ってもみないような場面に遭遇したとき、その時ごとにそれぞれ独特の風景として感じるようなものなのだろう。そして、それは何気ないような日常でも起きているのだ。同じ景色も、同じシーンも、同じステージも、ほんとうは二度と体験することのできないその時だけの特別な瞬間だ。

まるで、万華鏡からのぞいた模様のように。

痛みについて、健康で生き生きとした時期には思いを馳せることも少ないものだ。医療機関で医師に痛みを伝えるときには、じんじんとか、しくしくとか、ずきずきとか、いろいろな擬態語で表現される。言葉の音の、響きのイメージや雰囲気で、なんとなく使っている痛みの伝え方。ある人のじんじんは、また別の人にとってのずきずきかもしれない。愛猫はどこかが痛むような仕草を見せたが、どこがどう痛むのかを知ることは難解であった。痛みに限ったことではない。そもそも、これまでに一度たりとも彼女の言っていることを理解したことなどないのだ。こちらが勝手に食事の要求や甘えの意志表示などと意味づけをして理解した気になっているだけで、それを確認する術すらないのが事実なのだから。

人と動物は、同じ言葉を持たない。人と人は同じ言葉を持っているつもりになっている。言葉は感情を増長させる。言葉は誤解を生む。言葉は人の救いとなり得て、同時に人を打ちのめす可能性を孕む。言葉で距離を縮めることもできるし、言葉で距離を作ってしまうこともあるだろう。言葉は幾重にも重なりその人を形作り、その人について語るとき用いられるのもまた言葉である。言葉によって表現されたその世界は、真実とは一線を画すパラレルワールドだ。限りなく現実を描こうとしても、間違いなく主観が入り混じり、その言葉遣いには書き手の世界観がにじみ出ているのだろう。それは、事実とは異なる。では、事実とはいったい誰から見た世界を指すのだろう。事実とは、その人の言葉で表す世界観に満ちた、その人にしか感じられない目の前の現実のことなのかもしれない。独特で個性的で誰にも真似のできない、貴重で豊かな、その人だけの。

なにも言わずにただそこに佇み、あるいは寄り添い、場所を、時間を、光景を共有するとき、違うことを考え、別の視点で、それぞれの思いを抱いているだろう。動物と人間も、親と子供も、何億パターンもの「あなた」と「わたし」も。感じ方は人それぞれとわかっていても、言葉にしたくなってしまうのは、そこから感じるものを頼りにしたくなってしまうのは、言語野を発達させた重い重い脳を持つホモサピエンスの進化の結果。氷点下の冷気から、劫火の熱までの間を行き来する言葉という飛び道具は、強烈な磁力でもって人々を惹きつけ合わせる。火も刃物も便利な道具、そして危険な武器としての能力を持っている。せっかくだから、卵のように温めて、食べごろのゆでたまごの形をした磁石を創る職人でありたい。

愛猫は、言葉を使わずにそんなことを思い起こさせてくれた。くれた、というあたりがもうすでに擬人的であり、意味づけを込めた勝手な解釈なのだが。言葉を使って、表現したり説明したりして、かえって事態を複雑にしてしまうこともある面倒なヒト科の生き物に、彼女らはいつでも、そのふんわりとした毛並みのようにやわらかな安らぎを与えてくれる。言葉の響きに酔いしれ合って言語を交わす、不器用で自意識の強い、愛すべき我らに。



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