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『ギターの先生⑤』

第5練習 ギターと涙と承認欲求

あれから1週間が経ち、はじめての正式なレッスンの日。
2回目の隣町。同じような街並みに少し迷ってから、知らないと入りづらい雑貨店にワタシは難なく足を踏み入れる。
「こんにちは」
スラリ女は体の線がぴったりと出るタイプのロングタイトスカートを履いていた。
スタイルがいいのが分かる。
ぽっこりお腹と太ももを気にするワタシとは、似ても似つかない。
そんなに年齢は変わらないと思うのだけど。
「マキオがお待ちかねよ。あれで結構楽しみにしているみたい。久しぶりの生徒だから」
マキオ。。。そういう名前だったのか。そして、呼び捨ての関係か。
なぜだろう。またがっかりしているワタシがいた。

「はい、チューニング」
マキオは、この前の赤いギターをワタシの前に差し出した。そしてワタシの背中に目をやって、少しだけ目を見開いてあどけなく少年みたいに微笑んだ。
「そっか。この前買ったよな」
何度もうなずきながら、嬉しそうに大切そうに赤いギターを奥にしまい込んだ。
「チューニングしてきた?」
返事を返したものの、ケースから出したギターのチューニングは、ここに来るまでに見事にずれていた。
じゃーんと鳴らすとちぐはぐな音色が、耳にパンチを食らわせる。
期待していた音とは違う。
「みんなそんなもんだよ。チューニングは合わせたそばからズレたりするから、弾く直前まで合わせるんだ」
そう言うと、マキオは何も見ないで30秒かからずに自分のギターのチューニングをパパっと終わらせた。
ワタシはというと、ケースの中からチューナーを取り出して6弦から順番に「EADGBE」と、覚えたてのコード名を唱えながら何度も弾く。
マキオは、ワタシの様子を腕を組んでかったるそうに見守っていた。

「あ、いらっしゃいませーお久しぶりー」
店舗の方からスラリ女の気取った声が聞こえた。お客さんが来たらしい。
やはり心配しなくても、ちゃんとお店には常連客がいるのだ。
楽しそうに将棋の談笑が始まり、声の感じから年配の男性客だということがわかる。
紅茶を淹れているのだろう。この前とは違うフレーバーの香りが漂ってきた。
そんなことに気を取られている間に、ワタシのギターチューニングがどうにかこうにか終了した。
「よし、じゃあ曲練習しながらコード覚えていくから。まずはハッピーバースデートゥーユー」

目の前に真っ暗なバーのステージが広がる。
相変わらずきれいな指で、マキオはギターを優しくなでるように弾く。
スポットライトに照らされて、タキシードを着た色男がゲストたちを魅了する。
聞きなれているはずの曲が、なんでこんなにも心を締め付けるのだろう。
ハッピーバースデートゥーユーって、セクシーな曲だっただろうか?
ワタシは透明のグラスに深紅のワインをいただいている。
こんな風に、弾けるようになるのだろうか。

「Cコード、Gコード、Dコードでいけるから。これ、指板表っていう。覚えて」
水色の、一般的な大学ノートを渡された。
1ページ目を開くと、『HAPPY BIRTHDAY TO YOU』というタイトルが書かれていて、その下には指板表がご丁寧に指の図解付きで書き込まれていた。
とんでもない場所に、とんでもない指の名前が書かれている。
「じゃあ、Gコードから。6弦の3フレットに薬指、1弦の。。。」
無理無理無理。なんじゃこりゃ。指が取れてしまう。馬鹿なんじゃないの?と思う。
「Cコードは2弦の1フレットに人差し指で4弦の2フレットに中指、5弦の3フレットに薬指」
マキオは、ワタシが悶絶している顔をそれはそれは楽しそうに眺めていた。
しばらくするとある程度押さえられるようにはなったものの、イメージしている音が出てくれない。
雑音。
きちんと手首を引いて指も第一関節を折り曲げているのだけれど、やはり一筋縄ではいかないものなのだ。
コードチェンジも、まったくどんくさい。
「今日はここまで。これを次までに練習してきて。来月ね」

部屋を出ると、大黒天のような年配の男性が弁財天のようなスラリ女とまだしゃべり続けていた。
なんだか七福神の会合みたい。
「あらお疲れ様。こちらで一緒にお紅茶でも」
一緒に香る煎餅の匂い。これは海苔だな。お腹が空いてくる。
「お?ヒハーほへいほはんはい?」
おせんべいを舐めながら食べるために取ったであろう入れ歯が、ハンカチの上にドンと鎮座している。
男性は多分、ギターの生徒さんかい?と聞いたのだということがわかった。
歯が無い、ニコニコと可愛らしい笑顔に癒される。
「はい、そうです。ギターの生徒です」
自分の隣りに座るように、その大黒天は手招きをしてワタシを促した。

そう言えば、山梨のおじいちゃんのところに行ってないなあ。今度会いに行こうかな、なんてことを座りながら考えた。
海苔付きのお煎餅を食べ終わり、お茶でブクブクとうがいしてから大黒天は入れ歯を入れなおした。
「失礼しました。これできちんと喋れます。はじめまして、ホテイと申します」
大黒天様の苗字は、「布袋」だった。ややこしい。
少しのつもりでいたけれど、なんだか久しぶりにおしゃべりが楽しくなったので、気が付けば夕方6時を回っていた。
マキオも、自分から快活にしゃべるわけではないのだけれど、同じ場所にいて人の話を聞いて嬉しそうにしている。
見た目が気取っているように見えるから誤解されるだろうなあと、マキオを見て可哀そうに思えた。
「あら、こんな時間。ごめんなさいねコメコさん。引き止めちゃって」
スラリ女がカップを片付けながら謝ってきた。
そうか、夕飯。
今日は献立も何も当たりをつけていないから、何も考えてないや。
「チーコさんはなんで謝っているの?コメコさんは何か用事?」
スラリ女はチーコさんという名前なのか。じゃあチエコとか、きっとチの付く名前なんだろうな。
「だってほら、コメコさんは高校生のお嬢さんと旦那さんの夕飯の支度をするのよ。私とは違うのよ」
すっかり忘れていた。そうだ、ワタシはママなのだ。
今日はパパも久しぶりに8時頃には帰ると言っていたし、おんぷもデートも部活も無いと言っていたっけ。
「どうしてママだけが毎日夕飯の支度をしなくちゃいけないの?たまにはいいじゃない。ギターを習いに来て、おしゃべりが弾んで少し時間を忘れてお茶を飲んで。だって高校生なんだろ?娘さん。旦那だって大人なんだし。ママが作らなくたって、1日くらいなんとかできるでしょう」
大黒天の考え方は、最先端だった。
こんなにすんなりと大人女の存在意義を肯定してくれる大人男が、ここに居た。
「まあ、布袋さんはよっぽどコメコさんを気に入ったのね。でもコメコさんは真面目だから帰るのよ」
そう。ワタシは真面目。だからこのまま真っすぐスーパーに寄ってから急いで家に帰って夕飯の支度にとりかかる。
すでにこの話をしている時に、あらかたの献立を脳内で模索している。
昨日は豚汁だったから、今日は洋風にしようかな。
オムライスにトマトとレタスのスープなんてどうかしら。

「お疲れ様。またね」
マキオがドアの外まで見送ってくれた。
振り返ると、軽く手を振ってくれた。

少し薄紫色の空は、もうすぐ本物の夜を月と星と共に引き連れてくる。
隣町の商店街は、にぎやかに人々の声をこだまさせていた。
美味しそうなお惣菜や、焼いているたこ焼きの香ばしい匂いがお腹の虫を起こす。
ワタシはママ。そして主婦。そして妻。そしてパートタイマー。そしておばさん。そして大人女。
今現在、どれに重きを置いているか。
本当の、ワタシの名前は?
自分で自分の名前をうっかり忘れた。そう、ワタシの名前はコメコ。
これは承認欲求なのだろうか。それは、子供を産んでからというもの何年もないがしろにしていたように思う。

街灯が、蛍のように光り始めた。
ポイン、とスマホが通知を知らせた。
「今日、やっぱりノブくんと会うから夕飯いらないでーす」
おんぷからだ。
30秒後に、またポインと鳴る。
「ごめん。急にミーティングが入りました。おそくなります。ごめんよ」

スマホの時計は18:25。
この時間に、このタイミングに夕飯ブッチ。
家族にとってワタシという存在は、大した存在ではないのではないかと切なくなって、歩く速度が遅くなる。
フラフラと海の中を漂うクラゲのように、カラオケボックスの前に到着した。

『カラオケ★キャニオン』のネオンが、雨が降ったようにゆらゆらと揺れた。

『ギターの先生⑥』|さくまチープリ (note.com)


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