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Happy Women's Map 中華民国・長春県 日本女性初の大使・「女子差別撤廃条約」の立役者 高橋 展子 女史 / Japan's First Female Ambassador, Ms.Nobuko Takahashi


-『婦人と年少者』1966年1月号

「精度とか常識とか社会通念とかそうものにとらわれないで自分の道を行きます。とっても痛快。」
"I am going my own way without being bound by precision, common sense, or social conventions. It's very exciting."

高橋展子 女史
Ms. Nobuko Takhashi
1916 - 1990
中華民国・長春県 生誕
Born in Changchun-city, China

高橋展子 女史は日本女性初の大使で、日本の「女子差別撤廃条約」締結の立役者です。敗戦後の労働省婦人少年職員として「勤労青少年福祉法」「勤労婦人福祉法制定」に邁進。初めて日本の法制度に育児休業を制定。国際労働機関(ILO)事務局長補佐、デンマーク大使を経て、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」に日本政府代表団首席代表として署名します。
Ms. Nobuko Takahashi is Japan's first female ambassador and a leading figure in Japan's conclusion of the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women. After the defeat in the war, she worked as an employee of the Ministry of Labor for the establishment of the ``Working Youth Welfare Act'' and the ``Working Women's Welfare Act.'' For the first time, childcare leave is established in the Japanese legal system. After serving as Assistant Director-General of the International Labor Organization (ILO) and Ambassador of Denmark, I signed the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women (Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women) as the head of the Japanese government delegation.

「あこがれの英語教師」
 展子は中国の東北地区、当時の満州の長春で生まれ、大連の女学校を卒業。大連の街には日本人・中国人・ロシア人・朝鮮人が暮らすものの、日本人だけの社会組織の中で日本人だけの学校・病院・公園で過ごします。そして、核家族で単純で明るく近代的に豊かに暮らします。大正デモクラシー後期の自由にのびのびと勉強できる雰囲気の中で、展子は男の子をたくさん従えガキ大将で生き生きと飛び回ります。ところが女学校に入ると、女の子は女の子らしくと制約が増え、お作法といった刺激のない学科ばかり。そこに、女子大の英文科を卒業した若くて素敵な女性教師が英語担当となり、みんなのあこがれの的となります。展子は広い外の世界とつながる英語にすがりつくように勉強をする様になります。花嫁修業はまっぴらで、東京女子大学の英文学科を目指して猛勉強。入学後はじめてアメリカ人の英語を耳にしてチンプンカンプン。猛猛勉強してアメリカ留学を目指すも戦争で閉ざされます。八方ふさがりの状態で卒業すると、何とか大手商社に入社して翻訳の仕事に勤務、まもなく結婚退職します。

「アメリカ人女性将校」
 しばらく専業主婦で過ごすと戦争が始まり、夫の出征・疎開騒ぎと続き、適正外国語と目の敵にされながらもほそぼそと英語の勉強を続けます。疎開先の埼玉で敗戦を迎えると、展子は早速ラジオから流れてくる米兵向けの英語放送に耳を傾けます。放送内容がよくわかって安堵する展子は、浦和の埼玉県庁でGHQ軍政部との渉外の仕事にありつきます。各県庁ではアメリカ軍人の顧問が毎日県知事に指令を出し戦後改革を急ピッチで進める中、展子は軍政部顧問と県知事はじめ県庁職員との折衝の通訳・資料の翻訳といった、女子大を卒業以来8年ぶりに初めて外国人相手に英語を使って第一線の仕事に勤務します。半年後、東京のGHQ女性視察官の案内を勤めた展子は、男性将校と肩を並べて仕事に邁進する姿に感銘を受けるとともに、その女性将校に引き抜かれます。東京のGHQ民間情報教育部・企画課婦人係に所属、婦人関係の政策立案を行う部署でそのアメリカ人女性将校のアシスタントを務めます。展子は、アメリカ軍人の男女が仕事に恋愛に余暇に自由に働く職場で、毎朝の新聞記事の中から婦人関係の記事を翻訳したり、オフィスにある諸外国のデータ・資料を読み漁って、日本政府の役人ならびに民間指導者との会議のための準備をしながら1年半を過ごします。

「勤労婦人福祉法」
 やがて新設された労働省婦人少年局に移動、初代婦人少年局長・山川菊栄女史のもと、女子及び年少労働者ならびに一般婦人についての資料の収集・実態調査・政策立案・ 資料の公表・「婦人週間キャンペーン」を、全国の婦人少年室の女性職員とともに邁進します。膨大な資料をいちいち英語に翻訳しては、週に1回上司のお供をしてGHQへ赴き交渉の通訳をしたり直接話し合ったりしてGHQの許可を得ながら仕事を進めます。やがてGHQがなくなると、旧体制派・吉田茂内閣によって山川菊栄女史が罷免。婦人少年局解体の圧力が強くなる中、展子は課長・田中寿美子女史の補佐を経て課長として、「事業内ホームヘルプ制度」(企業が家事・育児を補助する人材を雇う制度)を繰り広げます。さらに局長として赤松良子女史を補佐に迎えて「勤労青少年福祉法」そして「勤労婦人福祉法」制定に尽力。『伸びゆく力 : 働く年少者の生活記録』を刊行。 男女の賃金格差が2倍に広がる中で「ベストでないがベター」として「育児休業」を法に盛り込みます。舞台が変わって、国際労働機関ILOの地域会議が東京で開催されることになり、展子は同時通訳に抜擢されます。軍政部で米国各地のなまりのある英語に鍛えられていた展子は、さらに各国式オーストラリア英語・インド英語・フランス英語はじめ各国式英語と格闘して自信をつけます。

「女子差別撤廃条約」
 展子はジュネーブにある国際労働機関事務局・ILO本部で事務局長補佐として働くことになります。100か国から集まる職員たちと世界の労働問題を研究し、資料を作成し、条約草案を造り、総会などの会議を運営します。意見を言いたい聞きたい場合に署名入りの文書を出し、コピーを取って広く関係者に配り、毎日毎日、文書による協議で仕事の連絡も計画も論議も進めながら、黙っていては馬鹿だとみられる・人と違う意見を言うことが歓迎される雰囲気の会議で展子は自分に鞭打ってしゃべりたてます。2年を過ごした後、デンマーク駐日大使に着任。2か月後にはコペンハーゲンで開催された「国連婦人の10年中間会議」の準備に取り掛かります。現地の各国55人の大使へ表敬訪問、週に3日ずつの招かれるパーティーと招くパーティーで友好親善と情報収集。そして「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」の締結を渋る日本国政府を外圧で制し、日本政府代表団首席代表として署名。日本国内における「男女子雇用機会均等法」の成立はじめ「ジェンダー平等」を大きく推し進めます。帰国後の展子は、男性が願望を込めてつくっているセックス文化産業の繁昌ぶり、雇用平等法制定の的の外れた論争内容にカルチャーショックを受けつつ、婦人問題企画推進有識者会議の座長・横浜市女性協会の理事長・女性職業財団の初代会長を歴任します。

-在デンマーク日本国大使館
-ILO
-男女共同参画府
-『ジュネーブ日記 : レマン湖の見えるオフィスで』高橋展子  日本労働協会1979年
-『私の英語修行』富田展子 潮出版社 1981年
-『デンマーク日記 女性大使の覚え書』高橋展子 東京書籍 1985年

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