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死なせてあげたら、よいのか?

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者から頼まれ、薬物を投与して殺害したとして、嘱託殺人罪に問われた男性医師に対する裁判員裁判が京都地裁で進んでいる。
 「本人が望むなら、かなえてあげたいと思った」と、被告人の医師は公判で述べた。
 弁護側は「死を望む女性に生きることを強制するのは個人の尊重を定めた憲法に違反する」と無罪主張している。

 全身の筋肉が動かせなくなった苦悩は、想像を超える。
人生を終えたいという自己決定権は、究極的には確保されるべきかもしれない。
 しかし、そういう状態でも価値を見出して生き続けているALS患者は少なくない。
 死にたいという言葉は、つらさの訴えだ。人の気持ちは揺れ動き、周囲の人とのかかわりからも影響を受ける。まずは心理的な苦悩を和らげる方法を探るべきではないか。
 
 女性がどんな人生を送り、どういう経過をたどり、どんな生活環境にあるのか。SNSで知り合った被告医師は詳しく把握していなかった。
 主治医、看護師、介護ヘルパーと話し合うことも、どこかの倫理委員会に検討を依頼することもなく、ひそかに殺害を請け負って実行した。

 死にたいと言うから死なせてあげた、というのは、プロセスとしてあまりにも安直。見返りに金銭も得ており、医療従事者の多くは「ありえない」と感じているだろう。
 信念というより、医師の資格を隠れみのに、人を殺してみたいという欲望を満たしたのか。であれば傲慢だ。
 
 すでに共犯とされた男性医師には有罪判決が出ており、無罪主張が通ることは予想しにくいが、裁判の行方とは別に、気になることがある。

 病院の現場の空気が、被告医師の考え方と本当に対極にあるのか、という点である。
 終末期医療へのスタンスは昔と大きく変わった。回復の見込めない患者には、なるべく医療を控えるほうが倫理的に望ましいと考えるスタッフが看護職員を中心に増えた。
 とくに問題が多いのは、DNAR(蘇生不要指示)の扱いだ。DNAR指示の出ている患者というだけで、あらゆる医療に消極的になる傾向が少なからず見られる。DNAR指示が本人の意思かどうかもあいまいだったりする。
 ひとくちに医療行為を控えると言っても、具体的には4種類ほどに分けられる。
 ①回復を目指す積極治療をしない
 ②生存期間を延ばす医療の不開始
 ③生命維持の医療の打ち切り
 ④病状の悪化で心肺停止した時に心肺蘇生術(CPR)をしない
 DNARとは、④だけを指すのだが、②③の医療も控えるべきだと考え、もとの病気以外の要因で心肺停止した時でも蘇生努力は不要と解釈するスタッフが少なくない。

 粗雑なとらえ方が現場に多すぎるため、DNARという用語をやめて、「No-CPR」に代えるべきだと提唱している医師もいる(箕岡真子『蘇生不要指示のゆくえ』)。
 救命を望んでいない人だから、さっさと死なせてあげようと考えるなら、被告医師のベクトルと似ていないか。

 人の命に関することは、みんなで深く悩むほうがいい。

(2024年2月10日 京都保険医新聞「鈍考急考48」を転載)


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