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京都のお人はいけずなのか?

街の中を歩くのが好きなのですが、京都の街は見るところ満載です。
古いものから新しいものまで、京都らしいものから、らしくないものまで、街がごった煮に見えます。

京都は都ができてから1200年以上たちます。時の勢力が変わるたびに、京都の街は変貌していきます。応仁の乱では一度、廃都と化します。
大勢の人の無念の死と、その怨念が渦巻いています。

様々な無念や怨念を背負っていきている街は日本ではあまりないでしょう。そこに魅力と魔力が同居しているように思います。

京都のお人は、他者をうまく取り入れるのが苦手なので、よそ者にいけずしているように見えます。京都の中心で、井の中の蛙のような生活を送っているように見えたりもします。

でも、ぼくが思うにそれは京都のお人の問題ではなく、その土地や土地に立つ建物が、そのようにさせているのです。
お人は生々流転しますが、土地と建物は長く残ります。その地下にはたくさんの無念と怨念を抱いた何かが執着しているように思えるのです。
京都の土地や建物の、なにか霊みたいなものが、お人をコントロールしているのかもしれません。
そこにある怨念に静まってもらえるように、住まう人々が供養することこそ大切なのだと思います。

祇園祭が一カ月にわたり続くことも、それを物語っていると思います。
それでも足りないから、様々な行事を通して、過去の無念を癒すことを忘れないようにしているのだと思います。

京都に住むお人は、それほど住む土地や建物に対しての敬意を払うことを惜しまないのです。

それを覚悟して、この地にいらしてください、お住みくださいと、よそのお人に親切に教えてあげているように思うのです。安易な気持ちでは、怨念に取り憑かれますよと言わんばかりにです。

いけずととるのか、親切ととるのかは皆さん次第なのですが。

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#エッセイ #コラム

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