見出し画像

【たしかなこと】

チリンチリン。風になびいた、風鈴がその音色を優雅に奏でている。その音色は、鳴るたび部屋を彩る静寂を破った。しかし、それはかえって、部屋に一人で佇む少年に、静けさも寂しさも感じさせた。ふと音の鳴る方へ目を向ける。風鈴は、ガラスでできていて、そこには満月を背景に2匹のウサギが、夜の海を駆けている絵が描かれている。並走しているというよりは、一方がもう一方を追いかけている、そんな具合だ。彼らは野山でこそないが、「うさぎ追いし、かの山」で始まる名曲を思わせるものであった。もっとも、多くの人がそうであるように、この様な、誰しも聞き覚えのあるフレーズの後に続く歌詞を少年は知らなかった。美しい、と、少年は恍惚とした表情で、風鈴を提げている窓に寄り、マンションから見える景色を見下ろした。部屋は、十五階程の高さに位置しており、街全体を見渡せる眺望だ。彼の住む街は、典型的なベッドタウンで、都市開発により完全に区画整理された街であった。マンションもビルもモデルハウスも、恐ろしいほど綺麗に東西南北に伸びる公道に沿って並べられていて、美的センスというよりは数学的センスを感じさせるものであった。そしてそのほとんどがここ数年で築かれた新しいもので、開発前から残っている民家は、むしろその古めかしさ故に異様さを漂わせていた。そしてそんな街の上部には、空が青く澄み渡っていた。太陽も燦々としていて、部屋に進み入る風も肌を撫でるようで心地よく感じた。今日まで約一ヶ月、風の無い油照りや容赦のないゲリラ豪雨、身を切るように冷たい風の吹きすさぶ台風と、活動する上ではあまりに芳しくない天気が続いていた。それだけに今日の気候はよりいっそう愛おしいものに少年には思えていた。最高の日だ、と彼は人工と自然が織りなす、その景色に、精一杯の笑みを浮かべ、呟いた。その頰には涙が一筋伝っていた。
                  *
昨年の今日午後、マンションの十五階から幼馴染の男の子が、飛び降り自殺した。開発されたばかりの街ということもあり、話題を集めた。そうした理由もあってか、事故現場と思われる公道の脇には、ユリや菊など沢山の花束が供えられていた。少女もそこに一周忌という事で、花を供えた。警察の話では、自殺の原因は判明していないとのことだ。マスコミは学校でのいじめによるものだの、家庭内暴力によるものだの、いずれにせよ、事実確認のない憶測を交えて報じている。またほとんど関わり合いの無いはずの、近隣住民にしたって同じレベルの、無責任な噂を流しているだけだ。そうしたものは虚構だと、本人から聞いたものでなければ全てはうわごとだと、少女は聞き流しつつも、辟易していた。原因についてわかっていないのは彼女も同じだ。学校では大勢の友人に囲まれるタイプであったし、少年と少女は家族ぐるみの付き合いをしていたから、家庭に問題はないと頭の中でこそ、断定していた。しかし、そうしたわかりやすい筋立てがなくなると、ますます原因は不可解なものになって行く。その歯痒さゆえに、事実を自分の考えたい通りに当てはめて、溜飲を下げていた時期もあった。しかし、結局は自分も世の中大半の人もわからないこと、わかっているつもりになっていることを認めたくないだけであることを彼女は悟った。自分達には見えない、見られない原因があるんだ、と。だからこそ、彼女はわからないまま自分の心に留めておく事を決めた。わかっているのは、二人とも風鈴の音色が好きだった事、その絵を見て互いに童謡を連想した事、その童謡について最初のフレーズしか口ずさむことができなかった事だ。そして、そんな小さな事に幸せを抱いた夏が、平成最後の夏であるということだけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?