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疑問をもつということ(おとなナゼ?ナニ?じかん)

昨日の夜はオンライン、ゆりうララの3回目、「おとなナゼ?ナニ?じかん」でした。
日頃疑問に思っていることを出しあってみようという時間でした。
解決するよりも、その疑問について思うことをみんなで話し合ってみる、というような時間です。
自分の信じていることや、大切に思っていることを話すのとはちがって、疑問に思っていることなのでみんなもあ〜だこ〜だ言いやすいのです。
たとえば、明日の日の出の時刻のことはすぐ調べても、なんで夏の空って青色が濃いのかな?なんで秋の空って高く感じるんだろう?
これについては、答えをすぐに知ったところで、その正解は自分の疑問とはちょっと遠い答えのような気がするのです。

たとえばわたしは、毛問題について。人の骨格とかはここ30年の間に随分と変わってきた(顎が小さい、足が長いなど)ようにおもうのに、毛については相変わらず変わらないような気がする。特にむだ毛。人が無駄だと思ってるだけかもしれないけど、骨格が生活に適応してきたように、毛は適応しないのか。なぜ?
髪の毛があるといいと思ってる人ばかりなのに、薄くなっていくのは、なぜ?

もちろん、これについて説明できる人はたくさんいると思うし、ググれば何らかの答えは得られるかもしれないけれど、この毛問題を二週間くらいの間にいろんな人と話をすると、それぞれがみんな自分なりの考察をいくつかそれぞれ述べてくださって、それらはどれも、なるほど、そうだなあ〜、と思うようなことばかり。
自分がその疑問を持ち続けている限り、いろんな人の答えが聞けそうなのだ。
骨格は使っていくから変化するけど、毛は意識のことだから進化は遅いのでは?
人間がどう思おうと、身体の大事なところに毛が生えるのだから、ムダ毛は薄くなったとしてもなくならないのでは?
猿の子どもはお母さんの脇毛につかまって移動するからそのなごりでは?
おもしろい。毛問題。深い。


昨日の参加のみなさんも、最初は、大人になってからなんで?と疑問に思うことは少なくなった、あんまり出てこないかも〜と言ってたのだけど、
話を聞いて対話を重ねていくうちに、そういえばなんでこんなふうに思うんだろう?そもそもなんでそうなんだろうね?と自分の根拠に光を当てていくと、なぜなにじかんが徐々に盛り上がっていきました。



その時に話したことではないけれど、たとえばこの写真は先日熊野で山歩きをしていた時にであった石。
何気なく木の根元に置いてお茶とか甘いものをお供えすると、もう仏様にしか見えなくなっていく。さっきまで地面に転がっていただけなのになあ。
ここからなぜ?なに?を広げていくことができる。
でも仏様って実際には見たことないのになあ。この石は仏様だあって思うんだね〜、とか
宗教心ってどんなふうに育つのかな?とか。

ちょっとそう思ったことで、脳はそう捉えていくのかも。

前にマチス展を見に行った時、マチスが線を簡略化させても人と認識できるのはどこまでなのか、を模索していた塑像やデザインを思い出した。

頭や手足のようなものを認識できると、それはもう人だと思うようになってるのかも・・・。

では、龍は?エネルギーは?

自分が経験したところから、そういえば、何でそう思うのかな?
それってどこからきたのかな?そんな事に思いを馳せていく。

原因や結果、答えを知りたいわけではなく、疑問に思ったことをすぐに納得しないでいると、いろんな事に広がっていって、あとでいろんな出来事と符合してきておもしろい。
それが人とできたらさらにまたおもしろい!

昨日はまさしくそんな時間でした。

それはそうとわたしが昔のおばけの話を始めた途端、こちらの接続が不安定になり、何度か落ちて話すことが困難になりました。
なんで?