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大仏開眼への道10~ゆるやかに坂道を下る

がんサバイバーが次々と出現する眼の疾患と闘う記録。基礎疾患に1型糖尿病を抱える。

7月1日。眼科の診察は一か月ぶりです。
「久しぶりですね、お待たせしちゃって」
眼球防衛隊のN医師が、ほっとするような笑顔で迎えてくれました。
「二週間前から仕事に復帰したんですよ」
「それはよかった。無理しないで下さいね」
5月に受けた左網膜の血管手術は順調に回復していました。
しかし眼底の炎症「黄斑浮腫」が再発しているようです。
また眼球にあの高額な注射を打たなければなりません。
「前にも言ったけどこの病気は完治はしないので、腫れたら注射を打つ、を繰り返すしかないんですよ。たとえゆるやかに失明に向かって行くとしてもね。まあでもね、その前に命が尽きるのが普通だから」
「うははっじゃあ長生きしてやる!」
そう言って2人で笑いました。

イマドキの新人心得 

私の体は相変わらずのポンコツで、六月から再び仕事に復帰しているのですが、病気の治療に配慮してもらって部署を異動しました。同じ報道局内での仕事ですが、生放送に直接関わることはなくなりました。
最新機材のシステムを覚えては忘れて、知らなかった技術用語をたくさん覚えては忘れる毎日です。
なにしろ還暦近い新人なので、教える側も扱いにくいだろうと思います。
30年以上前の新人時代を思い起こすと、当時の先輩方はみな恐ろしく厳しくて、毎日が苦行でした。
「一度言ったら覚えろよ 二度は言わないからな」などと毎日怒られながら育ったものでした。今もその恐怖が染みついています。
時代は昭和から平成を経て令和になり、私は若い先輩に教わりながら必死になってメモをとっています。
あとで復習しようとノートを開くと、あれれ?慌てて書いた文字はぐちゃぐちゃで読めません。一度言ったら覚えろ…なんて言われていないのだから、その場でもっと質問したり確認してもいいのに。
結局「すみませんもう一回教えてください」と何度も同じ質問をしてなんと情けないことでしょう。
イマドキの若い先輩はクールで優しくて
「サクッとマニュアル送っときますよ」
と惜し気もなく虎の巻をメール転送してくれて時間の無駄がありません。

新しい仕事が今までと一番違うところは放送原稿を書きません。
ほとんど文章も書きません。
一番不安だった「原稿が書けなくなる」という悩みからは解放されました。文章を書かずとも思考が停止するわけでもありません。
これまで取材や番組制作でやってきたことと全く違う能力が必要です。
若い先輩が「パズルみたいにぴたりとはまった時は快感」だと言います。
なるほど若い人のサクッと仕事を進めるコツはパズルや将棋の「脳力」か。
ではどうすれば棋士のような脳力が身につくのかとインターネットで検索すると、思考法や脳科学、脳トレなどの入門書が続々とヒットしました。
でも本を読んで理解しようとしている時点で「棋士の思考方法」からは程遠いのだろうなと思います。
私は病気治療で身体的にもハンデを背負っての復帰です。何をするにも他の人より時間がかかり気持ちばかりが焦って余計な失敗も多いのです。
しかし立ち止まっている暇はありません。
明日の着地点は走りながら考えよう…ああ、やっぱり昭和の根性論が染み付いて抜けていませんね。周回遅れのランナーだって休息は必要なのです。

SOS!眼球防衛隊

慣れない仕事の研修から解放された土曜日の午後。
川崎の大型書店・丸善で目当ての本を手にしました。
伊藤比呂美さん『ショローの女』帯にはリアルに刻む老いの体感とある。
よしこれだ、とニンマリしたその時。
右目の端にコップの水にインクを垂らしたような「ウルトラQ現象」が発生したのです。手術をした方とは逆の右目ですが、網膜から出血したにちがいありません。この現象は2回目なので慌てずに病院に電話しました。
「網膜症で出血したのでN医師はいますか」
しかし時はすでに夕方に近く全員退勤した後でした。仕方なく休日診療の眼科医を探して駆け込みました。受付でこれまでの治療の経緯を説明すると
「普段の担当医は誰です?」
「え?あそこの病院のN医師です」
「N先生なら月曜日ここに来ますよ」
なんとN医師は隔週でこの診療所で診察に来ていたのです。
右目の出血は少量だったので止血剤をもらい、月曜の朝一番にN医師の診察を受けることにしました。

そして待ち遠しかった月曜日。
「私なんだかストーカーみたいですね、先生の後を追っかけて」
「いやあ、あれそのTシャツはSGじゃないですか」
「AC/DC!ユニクロTシャツ、これ2枚買っちゃいました」
SGとはロックバンドAC/DCのギタリスト、アンガス・ヤングが愛用しているエレキギター、ギブソン社のモデル名です。
私は診察室の椅子でくるくる回って背中のギターのイラストを見せました。
「僕AC/DC大好きでSG使ってました」

診察室でまさかのギター談義。
私もSG持っていましたよ。ところで先生。
「そうそう網膜の出血ね。少量だからすぐ止まると思います。この状態なら手術することはないので、まあ安静にして今週金曜日にまた大学病院に予約入れて来てください」

今回の出血は眼の中が濁って見えなくなることはありませんでした。しかしいつ再発してもおかしくない状況です。
不測の事態が起きても眼球防衛隊・N医師が助けてくれる、SOSに応答してくれる。
そういう運命の糸を、ちょっと感じました。

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