話題のエンタメ大作見るか〜という軽い気持ちで鬼滅の刃を観に行って、煉獄杏寿郎という狂気に心をズタズタにされた

※ネタバレ注意※
先週末に初めて映画を見て、その2日後に耐えきれず1人でおかわりに行って来た。元々アニメが面白かったから映画も観に行こうくらいの気持ちだったのに、これを書いている今精神がボロボロである。煉獄杏寿郎の“生“に飢えてLINEの喋るスタンプを買ったし、今は煉獄杏寿郎の香水を買おうか悩んでいる。自分でも何がなんだかわからない。

映画で初めて見た煉獄さんは外見の個性に反して異常なほどの現実主義者だった。どんな時も(夢の中ですら!)現実から目を逸らさず、目を曇らせる私利私欲は徹底して排除していた。それが“強者の自分は弱き者を守る責務がある“という思想ゆえなんだから、まるで滅私奉公という概念の擬人化みたいな人だ。
そういう生き様に心を滅茶苦茶にされて、辛さを整理する為に映画で感じた事をツラツラと書き出してみた。とりとめもない個人の感想だけど、暇つぶしにでも読んでもらえたら幸いです。


夢の中へ落ちていく
魘夢の言葉通り炭治郎達3人は自分に都合の良い夢を見て、夢の導入でも(夢に)溺れていく描写が入る。対して煉獄さんの夢はおそらく過去に起こった事実でしか無く、都合の良い展開も溺れる描写も無い。それどころか現実の本体は何だか眉まで顰めている。同じ幸せな夢の筈なのに何だこの差は。…と気になってしまったのが終わりの始まり

幸せな夢
炭治郎達3人の夢は彼等の願望(家族に生きて笑っていて欲しい、好きな子と楽しく過ごしたい、親分として尊敬されたい)がダイレクトに反映される。対して煉獄さんの夢では過去の記憶のままに父や弟が否定的な態度を取ったり困らせるような事を言う。異質なのは、煉獄さんの夢には人にこう言われたい、こうあって欲しいという"願望"が一切見えないこと。事実を歪める主観が殆ど無く、起こった事をただそのまま夢の中で再現している(と思われる)。無意識下の筈なのに小さな欲すら覗かせない?そんな事ある…?と思うけど、実際にそれを見せつけてくるのでもうこの時点で煉獄さんが怖い

考えても仕方のないことは考えるな
煉獄さんには父の真意は分からない。分からないことを考えるというのは悩むという事。悩む事は止まる事。立ち止まって他所(真意のわからない父)を見ていては目の前の弟を救えない。だから目を曇らせる心の迷いを排除する。夢の中で過去を改変しない事を含め、目の前の現実から目を逸らさないという姿勢があらゆることに表れている

煉獄杏寿郎の無意識領域
石畳があるのに本来セットであるべき家も道も無い不思議な光景。あの石畳はただ整地の為にしか存在しておらず、その整地が地平線まで続くという異様な世界。炭治郎達の無意識領域にはそれぞれの人となりを象徴する自我や小人が存在した。もし煉獄さんの無意識領域にも同じ何かが存在するなら、おそらくそれはあの場に唯一あるもの=炎。彼の人となりは既に炎(心を燃やすもの/強者の責務)と一体化しているという事なのだと思う。私欲の無い幸せな夢と、どこまでも広く整えられた世界で“私”が燃え続けている無意識領域。尋常じゃない

そしてどこを見ているんですか!
ギャグシーンではあるけど、「煉獄杏寿郎は前しか見ていない」という在り方そのものの暗喩に見えた。実際彼は他人の話どころか自分の心の微かな欲/願望にさえ見向きもせず前を見続けているので、狂気レベルの志を可視化されて個人的にあまりシャレにならないシーン

自分の首を斬れ
鬼の正体は利己的な欲を肥大化させた人間。炭治郎は幸せな夢に縋りたいという自身の欲(鬼)を斬ることで夢から覚める。だから斬るのは腹ではなく首。という事だと思うけど、個人的に本編アニメでも炭治郎の狂気を鬼と≒のものに感じる事が多々あったので、刃をあてる場所に迷いなく"首"を選んだ時はゾッとした

状況の把握と判断が早い
特に戦闘中で顕著だけど、煉獄さんは判断にしろ行動にしろ取捨選択の早さが凄まじい。優先順位が明確で、最優先事項(強者の責務)がどこにあるか常に意識している動き

感心してる場合か馬鹿!やるべき事をやれ!
炭治郎が自分で気付いた通り、驚きや怒りや同情などの心の乱れが次の行動を遅らせる。夢から覚めた煉獄さんは実際のところ相当強く自分への憤りがあった筈。それでも普段と変わらない様子で「不甲斐無し」「穴があったら入りたい」という言葉を口にするだけ。その間も前方からは目を逸らさない。取り乱してる間に誰かが殺されるかもしれないし、怒りに割くエネルギーは乗客を守ることに使うべきだから。ここでも私情をとことん排して目の前の現実に集中する煉獄さん

前へ!
鬼の首が先頭車両にあると知った炭治郎の台詞。どんな悪夢の中でも、どんな絶望(汽車自体が鬼)の中でも、前へ進み続けるしかないというこの映画を象徴するシーン。好き

やりなおしたい…やりなおしたい…
魘夢が最期に振り返った炭治郎達の特異性、もし戦闘中にそれらを認識・対処できていれば魘夢はおそらく負けていない。目の前の事実を軽視した結果、魘夢は負けた。夢と違って現実はやり直せない。どれだけ強い力を持っていても、現実から目を逸らしていては止められるはずの悲劇(敗北)も止められない。それは人も鬼も同じ

俺は俺の責務を全うする
汽車が横転する時、炭治郎は「誰も死なせたくない」と言った。同じく死なせたくないという気持ちを、煉獄さんは「責務を全うする。誰も死なせない」と言う。願望と宣言。経験と決意の差の表れ。は~……かっこよ…。実際、上弦相手に最後まで乗客を守りきった煉獄さんに対して炭治郎の伸ばした手は運転手まで遠く届かなかった。どんなに強く願っても届かない手の距離は、この時点での煉獄さんと炭治郎の間にある実力差そのものでもある。無情…

鬼になれ杏寿郎
猗窩座は煉獄さんの強さを認め、讃える。父親が口にした「(努力しても)たいしたものにはなれない」という言葉と、努力を褒め称えて「鬼になれる」という猗窩座の言葉。一見真逆のようで実はどちらも煉獄さんに強者の責務という苦痛を捨てるための口実を与えている。まるで北風と太陽のようにメタ的に大きな意味を持つ2人の言葉。それでも煉獄さんが責務を棄てることは無い

価値基準が違う
煉獄さんは人を守るために私欲を捨てて武を極めた究極の滅私奉公の人。エゴを極め、強くなる為に人を食べるというのは真逆の思想。…というか無意識レベルで私欲を捨ててる男に欲を煽る交渉ルートってちょっとハード過ぎないか猗窩座。そもそも煽られる欲がそこに無いんだ猗窩座!最悪手を打ってることに気付け猗窩座…!

弱者に構うな!俺に集中しろ!
煉獄さんの最優先事項はあくまで守ること。上弦を退けても炭治郎が死ねば責務を果たせなかった事になってしまう。だからどれだけ戦いに集中していても重傷を負った炭治郎(猗窩座から見た弱者)への注意は怠らない。どんな時でも煉獄さんは優先順位を忘れない。格好良い

猗窩座との問答
猗窩座と煉獄さんの問答(実際に声に出した会話)では、8:2くらいの割合で猗窩座が喋り倒している。これがもし全力でキレてくれる炭治郎だったら5:5かそれ以上を炭治郎の方が喋ってた気がする。事実、猗窩座の勧誘は(猗窩座にその気が無くても)煉獄さんの志や価値観を真っ向から否定する侮辱的な内容だった。それでも煉獄さんは冷静さを失わず、会話も最低限に戦闘へ集中している。合間合間に的確に答えるので、猗窩座の話を聞いてないわけでも無い。ここまでの煉獄さんの人となりを考えると、この時も怒りを感じる自分の心の声から耳を閉ざしていたんだろうと思う

竈門少年が死んだら俺の負けになってしまうぞ
語尾の「ぞ」で語りかけている通り、勝ち負けに拘っているのは猗窩座を否定したい炭治郎。煉獄さん自身は勝敗に拘っていないのに、炭治郎の憤りに寄り添う言葉選びで自分に意識を向けさせている。こんな時にも最適解を選べる煉獄杏寿郎…

最後の責務
煉獄さんにとって価値ある事は乗客200人を守りきったこと。にも関わらず、煉獄さんはその事に安堵したり喜んだりする様子を見せてくれない。炭治郎の慟哭に核心を突かれて呆けたのもあるだろうけど、大事なのはこの時点で彼には時間が無く、残された時間でまだ炭治郎に伝えるべき話があるという事。やるべき事があるならそれを果たすのみ。ここでも揺るがない優先順位。最期まで“私“を捨てて責務を果たす炎柱。あ~っ……

鬼が恐れる陽光
陽光は日の光。日≒火≒心を燃やすもの≒受け継がれる想い。冒頭でお館様が言っている通り、人が死んでもその想いは残る。そうして受け継がれる想いがいつか鬼を倒す。朝日が登るシーンで印象的だったのが、煉獄さんは汽車の影にいて完全には日光が当たらないというところ。暗がりの中で背中だけがうっすら輝いている。おそらく煉獄さんも受け継がれる想い(消え行く命)の一つでもあるという演出。(日光は想いの集合体の象徴なので。煉獄さんが煌々と日を浴び過ぎると、鬼が恐れる日光=煉獄さんとして個が強調されてしまう)

母との問答
ここまであらゆるシーンで私心を捨てて志に殉じる人だった煉獄さんが、最後の最後、母の姿を見た時に初めて"私"を見せる。夢の中でさえ表に出さなかった迷いと、肯定して欲しいという微かな願望を覗かせる「果たすべきことを全うできましたか?」の問い。ようやく煉獄杏寿郎の心を直接見ることができた!!!!!!!!死ぬほど泣く

煉獄杏寿郎の死
見られることが無いと思っていた煉獄さんの願望があった!煉獄さんの私心はここに生きてた!!と確信した瞬間、失われていく命。緩く上がった口角に煉獄杏寿郎という1人の人間を見たと同時に、その口元から力が失われていくのを見せつけられる。幸せの後の絶望。受け止めきれない……

コンテを作った人は鬼だと思う


というようなことをLINEでツラツラ話していたら、“私“の捨て方が狂気じみててまるで吉田松陰ですねと言われてビックリしました。えっ、そこ来る?
曰く、才を持って生まれた者はその才で世に尽くす責任があるという思想だとか、顔が痒いと掻く無意識すら私欲として禁じられていただとか、そんな松陰先生が“私“を捨てられたと実感したのは火事に飛び込んで人の私財を持って戻って来た時だとか、苦しみの象徴のような炎の中でも滅私の人は飛び込んで炎と一体になってしまうだとか…。煉獄さんに狂ってる私向けのエピソードをセレクトしてくれたんだと思いますが、単純なので簡単に興味を持ってしまいました。アニメの為に原作を封印しているので、煉獄さんを理解する為に原作より先に吉田松陰の書物を求めてしまいそうです…(迷走するオタク)
あ、でも映画特典の零巻があるらしいのでそっちは先に読みたい!雑誌のバックナンバーもオンラインで買える電子書籍時代、最高〜〜!

あと、映画を見てから煉獄さんやばいbotと化したせいで、一緒にゲームやってる海外の鬼滅ファンの子にStop falling in love with Rengoku!と言われてしまいました。(彼女は善逸推し)
仕方ないよ映画観ちゃったんだから!!君も早く観ろ!!観てFalling in love with Rengokuしろ!!!!と思ったのでもう少し気持ちが落ち着いたら他言語版の公開&配信も拡げて欲しいって公式に要望送って来ます…。この映画を観たい人が観れていないのが本当に勿体ない。世界よ、煉獄さんに堕ちろ…!

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