夜ごとに浮かぶ他者たちとともに 2004

噴水から流れる水泡、切り刻まれた背中への悪寒、唇から垂れる涎を手のひらで拭い、現実が何かを確かめる、遥か彼方に見える、草木の揺らぐ様を目に焼きつけ、羊の生臭い肉を噛み千切る、生を感じる時は何かを殺す時で、自分の身体の奥底の今にも燃え尽きそうな生命の灯火を掌で覆い隠す、耳鳴りがする、遠く深い海の底で鳴く鯨の様な耳鳴りだ、水中で手足をうねる様に動かし、鯨の尾の先から垂れる半透明の白い帯を掴もうとする、水中から地上に出られるとき、呼吸を、目の充血を、手足の温もりを、風の音を、感じて、生が生として誕生する、このまま水中で野垂れ死ぬ、それもいいかもしれない、血管は収縮して固まり、徐々に心臓は身体の円の中心となり、活動を停止していく、乳房を掴むと心臓はまだ激しく鼓動している、足踏みをして振り返ることなく離れていく影の行進、赤ずきんをこの国にこの地に産み墜とした原因であり結果だ、赤ずきんを抱いたこともないだろう、それどころか声さえ聞いたことないだろう、ただ寂しい背中の幻が目の裏に映る、蛇口から滴る冷たい水に手首を浸らして、冷たい水と生暖かい体温の温度差を肌で感じ、赤ずきんは外部との関わりを確認する、接続出来ない不甲斐なさ、いつもの様に良心と父親の面影を、暗い地中の植物の根っこみたいに張り巡らされる、生活において、いや、生きることにおいて必要な養分を摂取しなければならないのだと思う、明日は眼の中で泳ぐ魚の骨ように踊り、赤ずきんは今日も儀式を始める。
今日あたしは男の人と遊んだの、とってもいい人で素敵なのよ、肌と肌を擦り合わせてみたいと思ったの、こんなこと初めてよ、汗ってとても不潔だと感じていたの、顕微鏡で見ると多分肉眼では確認できない、微生物が分裂を繰り返し蠢いている、それが堪らなく嫌だったの、だって怖いじゃない、自分が自分であることをコントロール出来なくなるような気がして、その微生物に食い荒らされる気がしたの、精神みたいなものをね、だから人間なんて触りたくもなかった、でもね、それでもいいと思ったのよ、自分が自分でなくなることなんてどうでもよくて、ただ愛おしいと感じたのよ。その男の人はカルロって言うの。 アスファルトの上を車輪が転がる、ガタンゴトンガタンゴトン、電車のレールのつなぎ目みたく一定区間を通ると揺れる、乗っているのは古いおもちゃ箱、何でも入っている古いおもちゃ箱、水色のプラスティクの水鉄砲、古い布でできたお手玉、赤いビニール風船、ゼンマイ仕掛けのからくり人形、木製のオルゴール、もう全部取り出してしまった、もう中身はからっぽだ、台所にママが立っている、包丁で切っている、カタンコトン、カタンコトン、野菜でも切っているの、ねえママ、ぬいぐるみがないのよ、どこにも見当たらないの、ねえママ、どこにあるか知ってる、たくさん雨が降った日、遠足は中止になった、あたしは真新しい赤い長靴を穿いて出かけた、泥水でできたまんまるの水たまり、足を入れるとぬかるんで、どこまでも深く落ちてしまいそうになった、このまま足を出さなければずっと帰れないのかな、やがてママがあたしの手を引っ張った、さあもう帰りましょう、帰り道、雨はもう止んでいた、泥で汚れてしまった黄色い長靴、もう新しくない黄色い長靴、あたしはとても悲しかった、ママは洗えば汚れはおちるわよと言った、そうじゃないのよママ、そういうことじゃないのよママ。 空の飛行機の音、朝の教会の十字架の先に浮かぶ飛行機雲の懺悔、低音の遠吠えは犬の甲高い鳴き声と重なる、窓から見えるランドセルを背負った子供たちに優しさと微笑み微かに感じ、枕を空中に放り投げると細かい羽毛が飛び交う、赤ずきんは天気のいい日に傘を差す、半透明のビニール傘を通して強い日光が照りつける、足が動かなくなるまで公園を散歩する、何周も、何周も、コンクリートの細かい欠片が空から降ってきて、自意識を捨てろと愚かな神みたくそっと囁く、空の鍵盤のオルゴール、沢山の蛙が鍵盤を踏み鳴らす、雨樋から垂れる雨粒の音のように静寂であってエレガントだ、蛙の目玉はギョロりと赤ずきんのほうを向き、金縛りにあった様に動けなくなる、そっと天井が近づいてきて逃れられない現実の恐怖を知る、暗闇の中の汗ばんだ脂っぽいつま先の動き、確かに感じる存在に耐えられない不甲斐なさ、髯の長いお爺さんがついて来る、昆虫みたいな小さなお爺さんはステッキを持って赤ずきんの影を突く、突如出現した彷徨出でる魂は綺麗な半透明だった。 あたしはガタガタ震えているしかなかった、ただ部屋の隅っこで、6月30日はあたしの誕生日だ、16歳になった記念すべき日、カルロに初めて会った日、今日から何かが始まる予感がする、逆に言えば今日まで何も始まっていなかったのかもしれない、手の温もりの感じる、温かい、けど、すぐに離れていってしまいそうな潜在的な不安、カルロはあたしに言う、きみは旅に出るべきだ、そして感情を掻き立てる欲求の塊を見つけるべきだ、カルロはそして無邪気に笑う、僕はもうすぐ傍まで来ているんだ、こっちまで来いよ、寂しいんだ、カルロがあたしを呼ぶ、裸足のつま先から温かさがよじ登ってきて、廊下を歩いてスリッパを履いて、電話機の下の引き出しに何かメモみたいなものを見つけた、何処かに繋がる道しるべだと感じた、そしたら頭がクラクラしてきて股の間から血が溢れ出てきた、太股から踝まで赤い血が流れていく、スローモーションでその血があたしの瞼に映った、その血を指先で拭い、受話器のダイヤルを押した、呼び出し音が10回くらい鳴ってから、ママが電話に出た。 「今日誕生日でしょ?遊びに行かずに家で待ってなさいね。ママ、ケーキのおいしい店見つけたのよ、買ってくるから一緒に食べようね。昨日、学校は行かなかったでしょ?休んだって先生から電話があったわよ、まあいいわ、少しぐらい休んでもいいのよ、でも、勉強はちゃんとしなさいね。眠そうな声ねえ、返事くらいちゃんとしなさいよ、しっかりしないともう16歳なんだから。」

「ん?何よ、聞こえないわよ。今更何言ってんのよ。 パパはね、いないのよ。 あなたが生まれる前からずっと。」
急いで階段を駆け上がり、身支度をする、鞄に詰め込めるだけ色んなものを詰め込んで、外ではシトシトと雨が降っている、ぬるいコーンスープみたいな雨、赤ずきんは真っ赤なレインコートを着て、長靴を履いて、外に出る、遠く何処までも続く長いガードレール沿いに歩く、途中雨で出来た大きな水溜りを見つけた、足を入れるとぬかるんで何処までも深く墜ちてしまいそうになった、上を見上げると灰色の空、空虚だった、天国と地獄の境目はきっとあの灰色の空のずっと、ずっと、上に違いない、幼い頃に転んだ時の傷跡が蘇った、瘡蓋を剥がしてみると、中の生々しい傷はそのまんまだった、全然治ってなんかない、その時に見せかけだと気付いた、一見正しく思える人間も物体も論理も正義も何もかも、見せかけだ、水溜りから足を引っこ抜き、赤ずきんは歩く、橋の上で少年が釣り糸を垂らしている、何が釣れるのかと聞けば、人の魂を釣るんだと言う、少年の頭の上に魂が漂っている、いつかきっと自分の魂も釣り上げてしまうだろう、胸が痛くなった、視界が濁り、脳が揺らぐ、あたしは歩きながらカルロのことを考えた、時間が経つ度にカルロの存在が大きくなっていく、あたしは今まで人を好きになったことはなかった、好きになったと思ったことは勿論あったが、カルロのことを好きになった今にして考えてみるとそれは好きではなく、ただ単に好意であった、カルロは突如あたしの前に出現する、その時にとても身体が温かくなる、カルロを抱き締めてみたいと思う。 雨の洪水の後の静けさは遠く切ない、赤ずきんは歩道橋の真ん前でしゃがむ、もうすぐ7月なのに寒さで吐息は白く曇る、空からやってくる旋律の音、耳が過敏になり色んな音が聞こえる、自動車の排気音、自分の息遣い、何処かで雨が滴る音、遠くで遊ぶ子供たちの声、幾重にも音が重なる、これから訪れるであろう予感の音だ、遠くでサイレンが鳴る、陰鬱で不気味な音、行く当てもなく彷徨う硝子細工の子守唄、空中で弾ける細胞の結晶、バスの窓に映る子供たちの空虚な叫び声、死ぬか死なないかの選択か、いや生きるか生きないかの選択が正しい、心臓の動悸を貪り食う老犬たち、おっかない闇夜の妄想の果てで、小人たちの感情と感覚はまだ生きてみろと言う、耳障りでこそばゆい聞き漏らしそうなソプラノの音、死んで詫びる武士の逞しさか情緒か嘆きか、未練のない死など存在しないと確信し、眩い光を放つ空間から捩れた円が何もかも吸い込んでいく、ふざけんなよという怒涛の感情、母親の息子を想う嘆き、商売女の蝋燭、青い十字路で人型の模型が交錯する、消えそうな女の泣き声のようなピアノの音で、一杯の酒を交わす、座禅した僧と坊主が床の間で話すざわめき声、今宵の月の模様に重なる妖艶な赤い華は死にしがみつく人間たちのタナトスの象徴、ゴミ袋に入れられた手足の残骸は悲しい。歩くしかないのだ、建物と建物との間の影を、通り抜け、自分の行くべき場所を探す、そこは悪魔の落とし穴かもしれない、昔掘った百姓の井戸の底で眠る水子の骨のように、悲惨な末路も想定内だ。赤ずきんの真っ赤なフードからはみ出る、濡れた長い髪の毛が、夏の風物詩の風鈴の紐のように揺れる、感情の昂ぶりで次第に溶けていく氷の冷たさが白い乳房の上で踊り、寒さの中の唯一の迸りを感じる、真っ赤な舌で這いずり回る犬コロのような堕落、遠い昔に父が書いた声明文が地震で潰れた櫓の中から聞こえ、祭りの後のセンチメンタルと懐かしさ、大きな影に背後から抱き締められて、背中で汗が吹き出て、土人に犯される様な恐怖と情の色事でオルガスムを迎えるだろう、セメントで固められた様な身体中の悪寒もまた愛おしく、情婦たちの高笑いはさらに感覚を研ぎ澄まさして、心に直結するシンパシーのリズム、徐々に解体されていく人体の骨組みの模型、鋭利な刃物で傷つけられた臓器の切り口から溢れる血を口に咥えて、叫ぶ、人類の不甲斐ない嘆きを、毎日は暗い日曜日であるかの様に、口も鼻も血管も足も腿もむろん性器も灼熱を感じ、ヘドロの中の神秘な錠剤、毛むくじゃらの球体が暴れる、目も当てられず、声にもならず、ただ蠢いているのだ、砂漠の砂嵐の一粒の砂を舌の上に乗せて、辛くもがな、くしゃみをする、中央から外に向かって吹き荒れるその凄まじい音は、鉄鎖の亜鉛の苦味、腿から流れるセンシティブな血、小さな小指ほどの人形を抱き締めて泣く、トンネルの中を歩く、独立した完全で洗練された赤ずきんの足音は国を捨て亡命した作曲家たちの楽曲の一音より切実に孤独だということを物語る、通り過ぎる車のトランクの上に何かが乗っている、青いぼやっとした光の渦、纏わりつく、悲しみに暮れる女の亡霊たち、トンネルの中で、排水溝のパイプから垂れる雫が妙に響き渡る、悲しい女の涙みたく。 車の排気音がけたたましく響き渡る闇の中、ハイウェイの高架下から水滴が垂れた、雨はずっとしつこく粘り強く降り続けていたけれど、漸く止んだ、カルロを追いかけてここまで来たけれど、気配はいつしか無くなった。赤いレインコートのフードを脱ぐと、冷たい空気が毛根まで染み渡ってくる、ポケットから小銭を取り出して、温かいコーヒーを買って飲んだ。ほろ苦くて甘い優しい味だ。雨でほんのり濡れた前髪を弄っていると、様々なことが記憶に蘇った。カルロは以前にも何回かあたしの前に現れたのだ。いつだっただろうか、遠い昔、あたしは遊園地に行った、メリーゴーランドの白い馬の背中に乗って、ゆっくりと景色が揺れた、アイスクリーム屋の看板が、キャラクターのぬいぐるみが、カルロが傍で立っていた、あたしはカルロに手を振ると、手に持っていたコーンからアイスクリームが滑り落ちて、地面にバニラクリームがべっとりと付いた、あたしは驚いて白い馬から地面に下りると、甘い匂いに沢山の蟻が誘われて、触覚を上下に動かし餌を求めているのが見えた、蟻の大群はバニラクリームの海に溺れ、きっと寒くって、凍えて、足をバタつかせているんだ、あたしは人差し指で蟻たちを突付くと、動かなくなって死んでしまった。顔を上げて立ち上がると、カルロは何処かに消えてしまっていた。あたしは駆け出して、カルロを探した、すると出っ張ったタイルに躓いて、膝小僧をおもいっきり擦り剥いた、見ると生暖かい血が溢れ出して、チカチカして我慢できずに目を閉じると、目の裏側から透き通って灰色の煙が上っていくのが見えた、一塊の煙は少しずつ分散して、地上からのぼっていく、人の足が逆さになって、あたしの顔を踏み潰した、やめてほしいと泣き叫んでも、容赦なく踏み潰した、さっき擦り剥いた傷跡からまた血が溢れてきた、不思議と痛いという感覚は全くなかった、ただ何も出来ずに頭を抱えて終わりがくることをあたしは待った、すると突然、暗闇が舞い降りてきて、鏡に囲まれた迷路の遥か向こうの十字路の先に赤い風船が浮かんでいるのが見えた、風船についている長い紐を手繰ろうと掴むと呆気なく手からすり抜けてしまった、あたしは風船を掴まえようと追いかけると、やがて迷路の十字路の分かれ道に辿り着いた、左右と前方を見渡したけれど風船は何処にも見当たらなかった、仕方なく呆然と立っていると、鏡の中にカルロが突然現れた、カルロはあたしの姿を見て優しく笑いかけた、あたしもカルロを見て安心して笑いかけた、カルロはあたしが見失ってしまった赤い風船を持っていた、あたしはそれをじっと見つめていると、カルロはあたしと風船を交互に見て、風船をあたしに差し出した、鏡の中で風船が揺れてあたしは掴もうとしたが、壁が全てを遮って鏡に指紋の痕がこびり付いた、あたしが齷齪している間に鏡の中の風船もカルロも消えてしまい、鏡に指紋だけが残っていた。 いやね、ここに殺して捨てたんだ、死体をね、山を歩いていて、三日三晩寝ずにね、隣の村に毛皮を売りに行ったんだ、寝たら山賊に襲われるか、熊に食われちまうだろうと思ったから、怖くてね、ははは、漸く山の麓まで来て、もう少しで村に着くってところで、うっかり寝ちまってさ、荷物も、食料も、水も、毛皮も何もかも獲られちまってね、怒るよりか、もう絶望でね、動く気力も何もありゃしない、そのままそこに寝そべっていたんだ、そんときにね、森の中で若い女の声がして、誘うんだよ、こっちにおいでって、行ってみたら、14、5の若い娘っ子が木の根元に座ってやがんだ、そのすぐ傍においらの荷物と食料と水と毛皮があってさ、その娘っこが盗みやがったんだ、おいらは怒りで我を忘れて気付けば首を絞めて殺していた。女、女、女たちの墓場、女たちの嘆きの声、女たちの蘇る骨と肉体、女たちは死んでも女で、女が女であることを当たり前の様に受け入れる神々のしもべ、巫女もまた然り、女、女、女たちの墓場、燦々と輝く太陽に照らされて流れる血を、静寂に空虚に転がっている地に埋もれる女たちに染み渡りて、あの娘はいい子だと思っていたのよ、よく働くしね、愛想が良いからお客さんに好かれていたしね、でもね、幾らいい子だからって信用しちゃ駄目よ、私は女って信用しないのよ、薄情だからね、分かる?お金、何か問題を引き起こすのは大抵お金なのよ、人様のお金に手を出しちゃ駄目よね、別に殺すつもりなんてなかったのよ、手癖が悪いから手首切り落としてやっただけよ、私は別に悪くないのよ、あの娘が全部悪いんだから、女、女、女たちの墓場、湯船からはみ出る女の長い腿と足の指、クラッカーで挟んだチーズが女の口紅の赤と混じって、獣のコートを羽織って大きな通りに出掛ける、黒い電話と煌びやかなアクセサリー、性のシグナルと車のクラクションが重なって、あの子は本当に頭がいい子だったのよ、大学で物理学を専攻していてね、研究室に篭りっきりで、男っ気はまるでなかったわね、いやブスじゃないのよ、整っていて綺麗な顔立ちはしていたのよ、ただ物凄く地味だったのよ、あんまり男に興味も無かったみたいだから、いつだったかなあ、そうね、少し肌寒い秋頃だったわね、派手な化粧をして、眉毛も整えて、口紅をして、私あの子だって気付かなかったのよ、地下鉄のホームで会ったんだけど、面影が少しあるくらいで印象が全然違っていたから、表情が明るかったから恋でもしているのかしらって思ったわ、その時は気にも留めなかったけど、それがあんな事件になるなんて思いもしなかったわ、まさか不倫相手の奥さんを殺して自分も死んでしまうなんて、女、女、女たちの墓場、酒に溺れて女は憂鬱と孤独を噛み締める朝の光の薄いブルーに溶け込んで、聖者の生贄、見るも無残な肉欲の後、赤いベルベットのカーテンを女の足首に括りつけて、抱く、寒い夜を、空っぽのポケットを、髪飾りの花柄の刺繍を、愛のないポマードでべっとりの男たちを、瞳の奥底にある散った花びらを見つめ、叫んで還らぬ人を想い、山の茂みとささくれ立った心の渦を、水晶玉の怪奇な予言に振り回される、高い時計台から眺める、馬鹿みたいに口を開ける人々を、心に拳銃を忍ばせた子供たちを、漆黒の雨上がりの空を、細胞みたいな宇宙の渦を、そうね、頭は悪かったかもしれないわね、普通あんな男について行かないもの、普通の神経じゃないわよ、イカレてるわ、だって出所したての密入国者よ、盗みだって麻薬だって人殺しだってお金の為なら何でもするような悪党なのよ、私も一回だけ会ったことあるのよ、街中のゴミ箱を漁って集めた様な酷い顔の男だったわね、薬もやっているって聞いたわ、目の下が黒ずんで見るに耐えなかった、あんなに美人だったのに、それから三日後あの子から電話があって、物凄く明るい声で何度も言うのよ、わたしは幸せだって、そう、子供みたいに笑って何度も言うのよ、それでちょっと怖くなってね、暫く連絡とらなかったのよ、結局男に捨てられたみたい、薬のやり過ぎで死んじゃったのよ、可哀相に、女、女、女たちの墓場、神経を逆撫でする様な甲高い機械音、マンホールの上に立つ動物の皮のバッグを持った髪がパサパサの血色の悪い女の信じられないという声、凡てが時を経て磨耗して、様々な角度から、腐りきった体内から、時計の針のように正確に脈打つ人工の心臓から、襲い掛かってくる。ハイスピードで揺れていく、風のそよぎ、土、埃、荒ぶ魂の旋律、人間が丁度すっぽりと入るくらいの黒い大きな袋、赤ずきんは爪でビニールを破くと中にマネキンが入っている、若い女だ、髪は掻き毟られ、骨格は変な方向に曲がっている、その若い女の人形を金網に立てかけると、壮絶に何かを訴えかけてくる、クロイクチベニト、クロイイブツト、クロイココロ、マックロニソマッテイクノ、コワクナイワナレタカラ、ベツニオヨメニイケナクタッテイイノヨ、モウイイノヨ、アキラメタンダカラ、イイノヨ、ワタシニキスシタワヨネ、ウレシカッタノヨ、ココロガトケテイクヨウデ、イママデアンナケイケンナカッタノヨ、ワタシヲクルワシタノヨ、マタダイテヨ、ダイテ、ダイテ、ワタシヲダイテ、デモ、モウアンマリダワ、ヒドイワヒドイワヒドイワヒドイワ・・・ 光でライトアップされたマネキンが口を動かし何かを咀嚼する、様々な思いを巡らして、2羽のカラスが傍の水溜りで行水する、雌と雄の性の狂乱、黒々とした羽が辺り一面に散らばる、あの夜のあの時間の骸骨の妄想した世界、蝋燭の炎に照らされながらそっと誰かが近づいてくる、足音は優しいピアノの鍵盤のようだ、赤ずきんは目を凝らして見るが、暗闇で判断出来ない、漸く姿が確認できる距離まで近づいてきて17,8くらいの娘だということが分かった。赤ずきんの横をその娘は通り過ぎ、人形の前でしゃがみ、喋り始めた。「お外に出たら駄目じゃないの、お外はとっても怖いのよ、襲われてしまうわよ、サリーの大好きな石楠花、ほらこんなに沢山摘んできたのよ、静かに中に入りましょうね。」サリーは抵抗していたが、娘の手によって無理やり大きな袋の中に石楠花と共に入れられた。そして、娘は後ろを警戒するかのように一瞬睨むと、笑みを浮かべながら赤ずきんのほうに近づいてきた。「ねえ、あなた、お花買って下さらない?」娘は手に握られた二株の枯れた石楠花を差し出すと、赤ずきんは手でそれを制した。「あたし、男の人を探しているの、カルロって言うのよ。」「男なんて私は知らない。」イチコは赤ずきんの手を取り、サリーを入れた大きな袋を引き摺りながら歩き始めた。 ずっと、ずっと傍にいてと願いました。貴方がいなくなってから、石榴の実を食べました。赤い果実の汁が口の端から垂れていって、土に溶けてく運命を呪いました。魚を飼い始めました。鱗が氷のように光ります。とても綺麗です。知らぬ間に稚魚が何匹も増えていき、水槽が魚で埋め尽くされてしまいました。水槽を引っくり返すと床の上で魚が踊っていました。吐血する、苦しいのか、いやただガタガタ震えているのだ、順応出来ない不甲斐なさと、ある種の宗教的な問題によって、滅びた、呆気なく、そりゃあ自販機で林檎ジュースを買って飲むくらいの、ちょっとの甘さであったらいいのに、すごくすごく甘かったのだ、忘れろって頭が指令している気がした、でなければ生き延びることなど出来ないからだ、今日もまだ頭がイタイ、明日からもずっと頭がイタイ、分かりきっている、不幸であると言うことを、どんどん墜ちていくということを、不幸に身を委ねることは実際にすごく簡単なのだ、楽であると感じ、心地の良いほうに向かっていけばそれでいい、騙されるのも時には良い、全部程度の問題なのだ。便利なものはいっぱい溢れている、ただコントロールできない感情の不便さに魅せられるのだ。 車が激しく排気音を鳴らしながら二人の横を通り過ぎていく、黄土色の電灯に真っ直ぐと続く長い道が照らされて、イチコが言う。「皆、きっとあなたのこと気に入ると思うわ、無条件でキレイなものは好きなのよ、ただ男に関しては何にも言っちゃ駄目よ。すごくナイーブなのよ。」「ナイーブ?」「繊細なのよ、性に対して凄く過敏なのよ。あなたは誰かに愛されたことあるの?」「わかんない、古い木箱の様なものの中に、詰まっている。偶にふとした時にそれが開くの。」「それってさっき言ってた男の人のこと?」「そう、カルロのこと。でもあんまり会えないのよ。探していたら気付くとここまで来ちゃったのよ。」「袋の中の女の人、どうして?」「ずっとガタガタ震えているのよ、皆、心の中ではガタガタ震えているの。」 影の参列者たち、鋒鋩とした肉体の悪夢、捩れる旋律と鮮烈、塀の向こうの未来と壁の亀裂、悪臭漂う魚の骨を下僕が咥える、洞窟の中の一晩限りのフェスティバル淡い炎の向こうに、渦巻く苦悩が、アカの手先が、機関銃を持って、唇から垂れ流す幾多の苦悶を、塩と胡椒と香辛料をかけて骨を齧る、胎内にいた頃人は皆孤独だった、純粋だった、透明な液体が泥水に汚されて血は生まれる、沢山の靴に踏み潰されて生きていく為の契約を交わす、硝子の指人形がお辞儀をして、逆さまに映ったささくれ立った心を持つ、バラバラのパーツを掻き集めて組み立てる、人って存在自体が、悪食なんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!カルロは生まれた時から確かにいたのだ、マグマの渦の中心の様に、あたしは心を踊らすばかり、外界の事など何も気に止めやしなかった、カルロをずっと求めていたが、同時にその存在を認めるのが堪らなく嫌だった、自尊心を傷つけられるのが怖かったのだ、愛されていないと言う恐怖を認めるなんて、価値を否定するようなもの、あたしはそんなことない、今だってすぐに準備さえ整えれば笑顔も容易いし、人に何だって言える、役に立てるんだ、玄関のチャイムを鳴らすと、エリーゼのためにが流れて部屋中に響き渡る、包丁で野菜を切っているエプロン姿のママが、カルロを出迎えるのだ、あたしは、分からない、記憶の奥底で眠るカルロの存在は間違っているかもしれない、記憶は埋められている、一体何が正しいのだろう、兎に角急いでカルロに会わなければ、あたしはあの人形みたいに、人形みたいに???????一体どうなるんだ、海が見えるのよ綺麗な貝殻の音、叫ぶと空虚な溜息が漏れ、宇宙の神秘と惑星の渦から構成される統計学的な魚の鱗の数みたいに、地震が起きるかもしれない、凡てはのまれて無に還っていく、結晶化された細胞をミクロの世界を色眼鏡で覗く、神経を逆撫でする様な不快音を、溶かしてひとつに纏めていくんだ、循環する世界と、旋回する視界がどう混じっていくかだ。森の木の根っこがうねる様に地を這い、地中から突き出していく、柵を飛び越えると向こう側に、大きな建物が見える、薄暗い灰色で、下水の臭いがする、窓は銃弾を浴びたかのように粉々に割れている、年代は不明だが、昔に建てられた建築物なのは確かだ、壁がひび割れ所々に亀裂が走っている、イチコは赤ずきんの手をひきその建物の裏側に廻って行く、すると中から女の声が聞こえる、何人もの女の声、イチコは人差し指を立てて自分の鼻に近づけると、赤ずきんに静かにするように促した、二人は窓からそっと中の様子を覗いた。シーナが氷を何欠片か口に咥え、歯で噛み砕くと口内でじんわりと溶け出し、ベッドに横たわっているヴェラの眼球をそっと舐めた、シーナが舌を大きな口から出すと、冷たい唾液が雨樋の雫のように垂れた、シーナの背中は細かい赤とか緑とかの血管が肌を通して見える、女と女の神経と神経とが重なり合い背中が仰け反り、汗腺から不純物を含んだ薄茶色い汗が流れ、真っ白いシーツにじんわりと染みた。シーナが手をヴェラの首に絡ませると細長い髪の毛がヴェラの顔面を筆のようになぞって滑る、するとコンクリートで固められた階段をハイヒールの踵で鳴らした靴音のような心臓の動悸が素早く耳に直結するように聞こえてきて、冷んやりとした糸を引いたシーナの唾液がヴェラの眼球から溢れ出し、鼻の傍を流れるように伝っていき、脇の汗の匂いを吸い込むとそっとヴェラの感部を刺激した、シーナの舌が離れると、笑って歪んだ口元がヴェラの透き通った瞳に逆さまに映った、シーナの爪がヴェラの胸部にめり込み、鎖骨の辺りを徐々に力を入れながら思いっきり噛みつく、車椅子に乗ったメイが充血した目で軟らかい鉛筆を走らせながらその二人の光景をデッサンしている、素早くスケッチブックにそれらを書き写している、メイは瞬きで眼球を潤わし、再び顔を上げてその光景を脳裏に張り付かせ、見つめ、シーナのざらついた舌の感触が、ヴェラのきれいな鎖骨が、絡みついた二人の手足が、背中の薄茶色の流れる汗が、メイの手によって描かれていく、シーナが歯をさらに食い縛ると、ヴェラの血管がつたなく切れて、血液の独特の苦い鉄の味がシーナの口内にじんわりと染み渡った、遥か遠くで聞こえ餌を求め彷徨っている、狼の遠吠えが肌を通してさらに神経を刺激して、それに伴ってヴェラのやわらかい骨が軋むと、古い打楽器のような音が周囲に鳴り響き、シーナはヴェラの頭部を包み込むように両手の手のひらでそっと覆った、シーナは顔を上げ笑うと、手をヴェラの手のひらに重ね合わせた、メイがコバルトブルーの絵の具をチューブからパレットに出し、絵の具が水に溶けてブルーが薄くなり、やがて夜明けのような色に変わると、シーナが何かに気付いたように突然神妙に頷いた、ヴェラはシーナの瞳に吸い込まれるようになると、意識を失い、床に倒れそうになると、シーナはヴェラの背中に腕を回し、肌と肌が激しく擦れた、シーナの朱色のペディキュアで塗られた足の指の爪の上で白魚が踊ると、鱗の粘膜の粘っこい感触がべたつく、するとシーナとヴェラの絡み合うベッドの足元で鱗が銀色に輝いている沢山の白魚が飛び跳ねて、その飛沫が幾多にも重なる小さな波を発生させ、やがて空間に虹をつくりだした、シーナの吐息がヴェラの耳の鼓膜に伝わると、綿棒の先端で身体中を擽った様な感触の波が訪れた、コバルトブルーの絵の具が筆についた水滴と混じり、帯状の模様をスケッチブックになぞっていく、シーナの歯形の付いたヴェラの鎖骨の窪みからその薄いブルーの帯状の模様がうっすらと滲み出て、とめどなく溢れる赤黒い血と混じる、シーナはそれを舌で舐めて吸い上げた、メイの瞳の毛細血管がさらに破裂するぐらいに膨張し、充血すると、再び狼の遠吠えが聞こえ、狼の影がベッドを囲むようにしてたくさん集まってくる、メイはスケッチブックを置いて慌てて手でその影を追い払う、その影はそれを無視して、その光景を狼の影は佇むように見つめ、口の中で唸っている、その声に驚き、足元で飛び跳ねていた何百匹もの白魚は行き場をなくし、地面に落ち、あっという間に腐り果て、周囲で生臭い異臭を放つ、辛うじて生き残っていた何匹かの白魚をシーナは手で掬い、ヴェラの口に無理やり突っ込む、生臭い異臭と共に白魚の尾鰭がヴェラの口からはみ出し小刻みに動いている、シーナはそれを覆うように口で塞ぐと、死にかけの白魚はヴェラの細い食道を滝が流れるように通り、目から一粒の涙が零れるのが見えた、刹那、無数の狼の駆けてくるような足音が聞こえ、異臭を嗅ぎつけた狼が女達を囲んで、腐った魚を食い荒らす、メイは怯え、頭を抱えながら発狂する、ヴェラは虚ろな目で天井を見つめている。
あたしは恐怖から逃げるように必死に暗闇を走り出した、やがて真っ暗な闇を通り抜けると周囲は気味の悪い湿った植物に覆われ、その植物の葉脈が心臓の鼓動の如く波打っているとても奇妙な空間に辿り着いた、あたしは立ち止まると大きな枯れた大木の割れ目からカルロがそっとこちらに向かって歩いてくるのを見つけた。全身を茸の胞子で張り巡らさた、薄汚い茶色の異様なその様態にあたしは立ち竦むと、力が一気に抜けて尻餅をついた。するとカルロが口を開いた、薄汚い茶色の全身の様態からまるで独立した器官の如く薄ピンク色の口内だけが一層際立って見えた。千の鶴が舞い降りた、酸性雨で枯れ落ちた、秋の紅葉、葉の乱舞、湖の上で揺れる木片の上で、ヴェールを被った花嫁の、舌を引き抜き、目を齧り、毛髪を抜きども、終わりなし、やがて黒煙が視界を遮り、鼓膜を突き刺さし、身体全体が心臓になったかのように痙攣し、脳内に途轍もない恐怖という名のイメージの連鎖が襲ってくる、毛のない生まれたての鳥が、地面に這い蹲る、虫が踊る土を食い、埃を被り、餌を求めて鳴いた朝、雲と空と世界ときみがひとつになる、黄金色の月でぼんやりと光る雲の漂う様を、息遣いだけが体内に響き、子宮への回帰が始まろうとする、腕に縛った拙い紐で、脳裏にべっとりと石炭のような黒い虫がこびり付き、死に泥でもがく赤子の手を見て、枯木の下で滴る、放水の雨が迸る錆び付いた雨樋、嵐の中の静かな子守唄のような波の音を求めて、塀で囲まれた檻の肉片を見つけ、暗闇の中できみは光を求めるだろう。 あたしは恐怖から逃れるように縋りつき、衝動的にカルロの胸倉を掴むと、茶色の茸の胞子が手のひらにべっとりとこびりついた、するとその胞子は微生物のように再生と分裂を繰り返して、あたしの手の中で生命が生まれ、その生命は夥しい数の白いナメクジみたいな細長い虫となり、円を描くようにうねっている、あたしはその虫を何故かとても懐かしいと感じ、胸騒ぎのする悪い既視感のようなものに怯えて、地面に混じり気のない綺麗なミルクのような嘔吐物を吐き捨て、その嘔吐と共にあたしは瞳に溜まった涙を指先で拭った。あたしは感情を抑えきれずに俯いた顔を上げ、カルロに問いかけた。 「ねえ、カルロ何を言っているの、全然分かんないわよ。あたしどうしたらいいの。あなたのことずっと前から知っている様な気がするのよ。あなたを受け入れたいのよ。」
あたしがそう言うとカルロは口元で薄気味悪い笑みを浮かべ、枯葉で覆われた灰色の地面を指差した。あたしはそれに応え、半信半疑で灰色の枯葉を手で退かし、地面を指先で掘ると、穴の奥から沸くように、さっきのナメクジみたいな沢山の細長い白い虫が再び姿を表した、あたしは手の甲に吸い付くその虫を必死に払い除け、再び地面を掘り続けたが、いくら掘っても、その虫が止めどなく溢れ出てくる、あたしはその度にその虫を手で掴めるだけ掴み、地面に抛ると、地中から外に放り出された夥しい数の虫たちは暫くうねる様に蠢いており、空気に触れるとその虫は何かに諦めたかのように膠着した。あたしは狼狽して穴を掘るのを諦めて、立ち上がった。そしてカルロの姿を探したがいなくなっていた。あたしは放心し、地面に仰向けに寝転がると突然金属と金属とが擦れあう様な甲高い音が耳に響き、あたしはその音に怯え、耳を塞ぐと突然肩の力が抜けて卒倒した。
線を辿る悲しき終焉を、揺れる風船の後先に帰る、足元戸口から見えて、あたしは玄関でママの大きなハイヒールを履いた、どこまでも行こうという高らかな気持ちに弄ばれ、小石とアスファルトを見た、嫌な臭いのするマンホールを見た、公園の大きな木と砂場で綺麗に光る硝子玉を見た、ぎゅうぎゅうで苦しそうに唸るバスに乗る人たちを見た、大きな瞳と分厚い唇の金髪の女の人が描かれた看板を見た、枯葉の上を歩いている小さな蜘蛛を見た、水槽で泳ぐ斑模様の魚の尾鰭を見た、白い横断歩道の線の上に横たわっている鳥の死骸を見た、死骸を近づいてよく見ると羽毛に隠れて沢山の小さな虫が飛び交っている、触ると身体は氷のように冷たく硬い、そうか死ねば皆「こいつら」に食われるんだ、そしたら頭の中を「こいつら」に食われるイメージが沸いてきて、駅のホームのでこぼこの上で手足を揺らしてバランスをとりながら、突然何かに向けて叫びたくなった、雨が落ちるホームの屋根の音は心臓の音と連動して木魂する、とても気持ちの良いリズムだ、踏切の赤い点滅信号が鳴って、そのリズムが崩されて強い風でスカートが靡いて、ハイヒールの踵が折れてしまった、すると突然大きな手に引っ張られた、危ないよ、お譲ちゃん、危ないからこっちにおいで、朦朧としながら、目が霞んで見える先の、その大きな手に思いっきり噛み付いてやった、うるさいんだ、どいつもこいつも、なんてうるさいんだ、血の苦い味がして、ポケットの中にあったキャンディを舐めながら、あたしは夢中で駆け出した、ハイヒールの踵のバランスの悪さに転びそうになって、その靴を空き缶が浮いた、あぶら模様のヘドロが浮いた、コンクリートで縁を固められたドブ川に投げ捨てて、もっとあたしに合う靴が必要だと思った、一歩一歩歩く度に足の裏が痛くって、疲れてビルの階段でしゃがんで蹲って、飴を思いっきり噛んで砕いた、ザラザラの欠片が舌の裏に染み付いて、舌先から垂れる甘い唾液の味を噛み締めながら、あたしはまた歩こうと思った、歩かなければ何もかもが終わってしまう、あたしは鳥の死骸みたく虫に食われてしまうのだ、そんなの嫌だ、絶対に嫌だ、あたしは歩いている猫を見つけ、その猫の尻尾の先の縞々模様を詰りながら、ビルの螺旋状の階段を登った、凍るように冷たい、足の裏から階段の金具を通して、無機質を肌で感じて、猫の尻尾は指から抜けて、縞々の猫は階段から地上に飛び降りた、あの子はきっと死んじゃう、さっきの白い歩道の上の鳥みたく死ぬんだ、そして虫に食われてしまうんだ、あたしはそう思うと涙が溢れてきて、階段を夢中で駆け下りた、さっきの鳥の目玉が階段にいっぱい落っこちている、泣いている、笑っている、怒っている、怖がっている、いいや感情なんて何にもないんだ、ここに落ちている目玉は命の灯火のない完全な無だとあたしは思い込むことにした、そう言い聞かせながら、一歩を踏み出し構わず目玉を裸足で踏み潰す、目玉はやっぱり氷の固まりみたく冷たくって、あたしは足を踏み出すと滑ってすっ転んだ、頭を打つと鐘が響いて遠くから足音が聞こえる、足音はどんどん近づいてきて、明るい光に照らされた。
暗闇から際立って中心で炎が燃えている、壇上でシーナが長い衣服を捲り上げながら踊っている、膨れ上がったシーナの足が地面に散らばっている小石、バラバラになった硝子の破片、木材の屑を踏んでいる、メイの車輪の音がギコギコと鈍い音を掻き鳴らして、その音が室内に響く、声高らかに叫ぶ、感情の凡てを吐き出したようなシーナの叫びは、神経を震わせて、身体中に僅かに残った水分を絞りだすかのような涎が垂れて口紅の色と混じりあって、頬から顎にかけてのラインを真っ赤に汚す、震えるような、まるで、そっくりと、ふるえているような、たましいの、女たちの潤滑のエキスは、まっさらな太陽にすらも秀でる明るさをもっている、そう、深呼吸をして、罵り合えばいいんだ、羊たちの眠り声が聴こえ、バタリと地面に平伏して、身体は動かないが目だけは覚醒している、麻酔薬を打った後みたいに、イチコは立ち上がり、笑う、ふざけているのではなくて、ただ笑っていないとどうしようもないのだ、脳内に収縮された細かい血管がポンプの役割をして血液を集める、足元は覚束なくフラフラと、シーナに同調してイチコは赤ずきんの手をとって、しどろもどろになりながらも赤ずきんはイチコに合わせて、踊る、ゆっくりと、丁寧に林檎の皮を剥くように、ゆっくりと、女たちの念慮の残骸を空に還していくのだ、無数の空の裂け目から溢れる日の光を浴びて、手首を持って、足枷を叩き壊せ、壁面に彷徨出る人型の女の影たちは、リズムに合わせて膨張したり、収縮したりする、ユングの云う象徴的なアニマの女性像のように、大陸の断面の奥底、暗闇の地の底に立っている、子供の頃に見た高いビルや公園や学校は今見ると吃驚するくらい小さくてただ無常だ、毛布に包まった胎児みたく、心は嘆いているからだろうか、シーナが両手をいっぱいに広げて天井を見ながら言う、まだ見えるのよ、目に涙を溜めて、見えるのよ、もう怖くなんかないわ、あたしたち皆食われちゃうのよ、尻尾を振りながら化け物が時間の概念なんか全部無視しちゃってさ、夢見ようと思って眠っても皆あいつに食われちゃうんだから、我慢して俯いてればいいのよ、狼の遠吠えが何処かから聞こえてきて、メイが叫ぶ、苦しいくらい勝手でしょ、人間なんて、苦しいくらい勝手なのよ、胸が掻き毟られるくらいの、熱い炎で燃やされて、顔なんかないもの、あたしもう、何が何だか分かんないの、燃やしましょうよ、燃やして天に還すのよ、シーナは黙って頷いて、黒い袋の中からサリーを、ベッドの上に転がっているヴェラをコンクリートの冷たい床に置いて、人差し指で口紅を拭って、マネキンの真っ白な、口元に塗りたくっていく、イチコは抵抗する赤ずきんの手をとって、そのマネキンの周りを円を描くように踊る、メイはポケットから、楕円形の入れ物に入っているクリームを取り出して、シーナに抱きかかえられながら、人形に塗る、狼の遠吠えが一層激しさをましてきて、シーナは煩いと一喝し、マネキンを炎の中に放り込む、シーナとメイは溶けていくマネキンを見つめながら笑う、炎と無邪気な笑顔は何か恐ろしいものを赤ずきんに想起させ、炎の赤が赤ずきんの目の中に吸い込まれていく。
湿った土で頬が綻び、朝露の葉っぱに溜まった滴が垂れて、あたしは目を覚ました。頭が痛い、何だか猛烈に痛い、辺りを見回すと誰も見つからなかった、暗い森に取り残された孤独から、あたしは叫んだ、反応はなく、風で葉っぱが揺れる音だけが辺りに響いた。あたしはふと思った、ここで何をしているのだろう、何でこんなところにいるのだろう、あたしは一体何者か、どこの誰なのか、幾ら考えてもよく分からない。考えるほど考えるほど、ドロドロの何かが体中から溢れてきて、暗い夜の海で孤独に溺れるような嫌な気分に襲われた、心臓の鼓動が早くなる、列車が線路を走るときのような一定のリズムの動悸、感情が爆発しそうだ、積もりに積もった恐ろしい何かが徐々に沸いて出てきて、自分を制御出来なくなりそうでとても怖い、でも今までずっと思い悩んできた心の何処かに引っ掛かる感情は綺麗さっぱりとなくなろうとしていた、ずっとそれと闘ってきたはずなのに、なぜだろうか、心に包帯を巻いて、幾ら感情が染み出てきても、何重にも巻いてずっとあたしは心を抑えてきたのだ、自分を取り巻く全てのものを失ってしまうのが怖かったからだろう。もうこんなに苦しむのならば失ってもいいのかもしれない、諦めなのだろうか、決意なのだろうか、決意だとしたら、何に対する決意なのだろうか。割れた硝子の尖った先で身体中を切り裂く感じだ、血が噴出してきてそれを止める術はもう何もないのだ。
白い細長い虫達があたしの目の前で息を吹き返した、動かなくなって死んでしまったはずなのに、虫達はあたしの目の前で交尾を繰り返す、その交尾は一瞬で時間にすれば瞬き一回程度だ、その瞬きをする度に虫は加速度的に殖えていく、あたしはどんどん殖えていく虫達を見ていられずに目を瞑った。ほんの10秒程だろうか、あたしは我慢できずに再び目を開けた。するとあたしはその光景に言葉を失った、虫達はもう数え切れないほど増殖していたのだ。頭が狂ってしまいそうだ、一体何が起きているのだろうか、もはやあたしの理解の範疇を遥かに超えていた。虫達は地面を這い蹲りながら、塀をつくった、屋根をつくった、壁をつくった、窓をつくった、門をつくった、そしてそれは一軒の家となった。虫一匹、一匹で形作られたその奇妙な家を見ると、あたしは妙な気持ちになった。自分が嘔吐をもよおすような気持ち悪さや恐怖に襲われているのは間違いない、ただその感情を押し殺して、あたしは何かを見届けるべきだと思ったのだ。そう思うと誘われるがまま門に入った。あたしは門から駆け足でその家の庭に回りこみ、縁側からはるか先に見えるひとつの四角い部屋を見た。あたしの世界から完全に孤立したその異質な四角い空間をただじっと見守ることにした。
ちくしょう、誰かがあたしの背中を押すんだ、誰かがあたしの背中を押すんだ、ちくしょう、真っ白いベニヤ板に金槌で釘を打つ、取り囲まれて壁が出来る、脆いベニヤ板で、蹴り飛ばせばすぐにでも壊れてしまいそうだ、蹴って殴って叩いて、空間が加速度的に目の前に近づいてくる、首が回らない、少しも動かないんだ、髪の毛が落ちる、あたしは両手で髪の毛を掴んで薄赤い手の平の温もりを頬にあてて我慢する、回せ、反対に回せ、空間は捩れるだろうか、頭の信号に叛けばいい、線を、そうだ、ミクロの線を束ねるくらいに集めて火を点けて、爪先に、線香花火みたいな火花がおちる、爪の表面に火花は着地して、仰け反る、ふくよかな足が空間に現れる、生命を生んだ足、カサカサな足、これからあたしは生まれたんだと感じる、爪は不透明で薄汚く黄色い病魔に侵されたみたいな足だ、どれだけ酷使したんだろう、ちくしょう、口の中に嫌な味の唾液が溜まる、堪らず唾を地面に吐き捨てる、ねっとりとした痰が舌先から糸を引く、ペンキで塗られていく、様々な色で真っ白いベニヤ板が塗られていく、彩色迸る淀みの中で、あたしは世界を捻じ込む、精一杯の力でおもちゃ箱に世界を捻じ込んでやる、けどあっけなく跳ね返される、突如湧いた抑えきれない強烈な感情があたしを襲う、全く制御できない、どうすればいいの、するとあたしを生んだ足が開く、動物的な性欲の解放、狩猟民の祭典、家畜を殺して火でなぶり、脂ぎった肉を食らうのだ、岩盤石の皿で食らうのだ、優しさなんか微塵も感じない、ただ本能と欲望そのものだ、白い歯だけがやたら際立った黒い影の大群の行進で、踊る狩猟民の祭典、背中の汗が鈍く光る、背中は膨れて腐った肌をあたしは掴む、醜い、ただ醜いのだ、そうだ、醜さのなかであたしは生まれた、けれど美しいと人は言う、鼻歌まじりに足踏みをしながら帰る、セラミックで出来た公衆便所、欲望と言う名の排泄物をおとす、液が垂れる、脳髄の液、使い古した注射器で二の腕を刺す、消毒するはずだった40過ぎの独身のナースは買い物籠を持ってスーパーに出かけた、病は益々進行する、津波が襲い独島は呑み込まれる、あたしは自然より破壊を感じる、指で背中を摘まんで優しさを知る、あなたはだあれ、あなたはなあに、一息漏らす、唇閉じながら、一息漏らす、混沌と情熱と戦慄のカーニバル、圧力からの開放を求め、センチメンタルな湿った舌の舐めずり、化かしあい、なぜか分からず涙が零れる、あたしは義眼の馬に攀じ登る、馬の鬣を掴み、ひたすら乾いた道をあたしは走る、どこまで行けるのだろうか検討もつかない、馬の目玉を手術して針を刺して瞼に縫い付ける、目が見えるようになったらあたしはきっと隣の国まで行こうと思う、包帯で義眼の馬の湿った長い毛を束ねてお洒落して出かける、何を求めて、何に嫉妬して、そして何を信じて、吐息が漏れる、指人形が話し合いざわめく、話したら分かるって、話したら分かるわよ、薄汚い廊下の隅の奥で掃除機の騒音に混じってママの声が聞こえる、驚いて畳の床に突っ伏して布団を被って耳を塞ぐ、鼓膜に突き刺さる、コードをぐちゃぐちゃに攀じる、空気の循環、脳の清掃、カルロの背中はいつもより大きく見える、襖から垣間見る濁った目玉、カルロの背中を抱き抱える小さなママの手、舌から垂れる欲望の水滴、盛りがついた犬小屋の奥の染みから溢れる感情の風車、何かを持って繰り返す、姑息で単純な反復運動、見て真似てもあたしには出来そうにない。手が震えて脳裏に突き刺さる、指を折って時間の経過をゆっくりと数え、終わりを待つ、何をもって、後悔の念があたしを襲う。カルロの名前を叫んでみる、醜い恥にまみれた表情、赤が生命と死の象徴だと言うのなら、恥はきっと紫色だ、赤を煎じて抽出してぐちゃぐちゃに掻き回す。放っておけば腐ってそのうち紫色になる、見られることに慣れてしまう、慣れてしまえば澱んだ黒い体液が生命を汚すのだ。ママの足の指が床に擦れてひん曲がる、反応して血液が脈を打つ、身体の中心から生命の成熟した果実のエキス、酸っぱい杏子色のカタルシス、吐息が漏れて、赤い口紅は唾液の中で薄い朱となり、頬にのっぺりと弧を描く、棚に載っていた砂時計が振動で傾き、砂は回り右へ左へと反復する、突如砂時計は割れて、そして空間は静止した。 このまま、そっと見つからないように部屋から出て、どこか遠くに行って、プラスチックのシャベルで砂を掘って、山をつくる、バケツで水を汲んで、山の中に水を流す、砂は水の重さに耐えられず、溝をつくる、そして溝は川になり流れる。道路の白線にはみ出さないように歩きながら家に帰るのだ。そうすれば、何にもないはずだ、いつもははみ出さないように帰っていたけれど、もしかしたらあたしは今日だけ間違って白線を踏み外してしまったのだ、そして、違う世界に飛ばされてしまった。あたしのママとあたしの家は何もかもがそっくりだけど、実際全くの別物だ。白線を踏み出した一歩から、七色のステンド硝子がとても綺麗な教会を見た、檻の中で蹲る足が短い犬を見た、様々な色のスプレーの落書きで汚れている歩道橋を見た、駐車場の隅のやぶけて錆びた金網をすり抜けて、よく考えれば全部うすっぺらい表面だけのニセモノだった、カタチだけが整っているだけだ、そこに感情は介入していないのだ、家に帰ってドアを開けて、いつもなら笑顔で迎えてくれるはずのママがいなかった、よく考えてみれば今日は朝からあたしはおかしかった、頭がフラっとして、足元がおぼつかなくって、地面の中がどこまで続いているのか確かめようとして、あたしは習慣を捨てた。そしたら朝がもう始まっていて、遅れて怒られるのが嫌で堪らなくて、近くの公園のブランコに乗った。二階建てのパン屋の窓から長い帽子を被ったロボットみたいなお兄ちゃんがこっちをずっと冷たい目で見ていて、誰かに何かをヒソヒソ声で話している。あたしは連れ戻されてしまうと直感して必死で逃げた。いつもは授業を受けている時間のはずだったけれど、違う軒並と違う景色と違う家並と違う道路と違う人々、一見同じ景色だけれど、同じでないと感じた、きっと突然何処か似たような世界に飛ばされたのだ、あたしはあたしであってあたしでない、そうだ、何もかもが、全てが、無機質なのだ。この腕とか脚を動かしたときの感覚もニセモノだ、誰かがあたしを動かす覚束ない歩行の速度、あたしは針金で吊るされた感情のない関節人形、藁で出来たくしゃくしゃの髪の毛、硝子玉の眼球、発泡スチロールの鼻、泥水を含んだスポンジの頬と唇、鋸で切った木材とネジで留められた手足、激しい通り雨の後、水溜りに映ったあたしの笑顔はとてもぎこちなくて、やっぱり自分は人形だと思った、金具で留められたあたしの口が開くと鈍い金属音が鳴る、あたしはきょうがっこうをやすみました、「あ、なんか喋ってるよ」、あたしはなにかにおびえてしょうどうてきにさぼりました、このままどうしようかなあ、どこにいこうかな、わからないの、なんかとてつもなくもろいものがくずれおちてくるの、「ごめんなさい、勝手に喋ってるのよ」、あたしはとてもじゆうなの、けれどもうすこしでこわれそうなの、おもたいものがのしかかってくるの、どうしてなのかはわからない、ほどけたくつひもをむすんでとおくにいこうかな、「もういいよ分かったから喋らないでよ」、やすんでいえにかえったらなんだかおかしいのよ、じんわりとにがいあじのだえきがくちのなかにたまってきて、「もう止めなさいよ、いい加減怒るわよ」、ままがかみをむすんでくれた、きょうはいつもよりすこしおしゃれしていかなきゃだめなの、よこめでみて、ままのながいかみのけがきれいだなとおもった、「駄目よ、もういい加減やめなさいよ」ままのみずでぬれたかみのけをくちにくわえた、たれただえきが、あしがからまり、ふくがはだけ、ままのちぶさをなめまわす、「もういいじゃないの、充分じゃないの」もうおしまい、あたしにはなにもできないの、こわれる、こわれる、こわれる、「残念ね、もう壊れてしまったわね。」 



メイは静かに窓の外の景色を見つめていた、自分がこの景色に溶け込むくらい取るに足らない小さな存在であると感じたときにメイはすべてに絶望した、メイは西洋の小さな港町に住んでいた、漁業が盛んで、街の人の大半は漁師だった、メイの父もまた漁師で、漁に出掛けると半月は家に帰らなかった、父の無事を願う為、メイは毎日教会に通って祈った、丘の上に立っているその小さく真っ白な教会は、メイにとって圧倒的に異質であると同時に神聖なものだった、七色のステンド硝子と、真っ白な壁は心を落ち着かせ、メイは自然と神の存在に頼るようになっていった、毎日聖書を読み耽ったが、ある日、父は嵐に巻き込まれ還らぬ人となった、メイは絶望し母を置いて家を飛び出した、そして教会の天井裏に、男を誘い出して、毎晩性交をした、この身を捧げることが懺悔に通じると思ったのだ、しかし、精神と身体の変容に耐え切れず、ある日自分の身体に自ら火をつけた、肌は焼け焦げ、見るも無残な姿となった。メイはそっと部屋の入り口のほうに車椅子の車輪を押して向かっていき、呟く、死ぬ日は生まれた日より大切です、私たちはやがて死ぬ運命にあるのですから、まだ生きているうちに、死について考えるのは良いことです、売春婦は死よりも大きな苦痛を与えます、神様に喜ばれるものは恵みによって、彼女から逃れますが、罪人は彼女の罠にかかってしまいます。カルロが部屋の入り口に立っている、メイはこの身を委ねようと火傷を負った動かない身体を無理に動かし、衣服を脱ぎ捨て、立ち上がり、カルロを抱こうとしたが、カルロは消え、メイは冷たい床に叩きつけられた。 シーナは鏡を見つめながら、疲れきった表情で分厚い化粧を落とした、真っ白なウェットティッシュはアイシャドーやマスカラや口紅でギトギトな色に染まっていく、あれは雲ひとつない晴れた日だった、学校から帰ると、空襲警報が鳴り、木造の平屋の下の防空壕に隠れた、やがて爆弾の破壊音が響き、辺り一面焼け野原と化した、シーナは怯えるように庇う両親の温もりの中で眠っていた、一日が経ち、二日目の朝を迎えた頃ある異変に気付いた、両親の肩をそっと叩いたが、全く身じろぎもしないのだった、胸ポケットに入っていた写真を握り締めて、両親を置いて外に出た、いつも見ていた風景があるはずなのに、視界に入ってくるのは無だけであった、冷たい足で焼けた土を踏み歩いて、汚れた頬を隠すために顔にスカーフを巻いて、泣きたかったが、泣けなかった、あるいは泣いていたのかもしれないが、その事実を認めると両親はもう戻ってこない気がしたのだ、シーナは港町まで出て、米兵の集まるバーで踊り子として働いた、そこで知り合った前歯が真っ黒な男と恋に堕ちた、その男が吐く息は火薬の臭いがした、男はある晩、酒を浴びるほど飲んで帰ってくると、ベッドのシーツを濡らしながら子供のみたいにシーナに何度も言った、お前の両親を殺したのは俺なんだ、俺なんか生きている価値もない人間だ、俺は人殺しだ、俺は人殺しだ、人殺しなんだ、シーナは項垂れる男を慰めながら、男の目の前で両親の写真を破った、その次の日、シーナは仕事から帰ってくると、男は風呂場で、ペンチで舌を引っこ抜いて死んでいた、シーナは人間の舌がそれほどまで長く伸びるということを知らなかった、タイルに落ちている曲がったその舌はまるで地でうねっている虫みたいだと思った。シーナは鏡台の引き出しから、破った写真をテープで貼って繋ぎ合わせて、両親とその虫みたいな舌のことを思い出していた、ステッキが地面を叩く音が聞こえて、鏡を見ると、カルロが立っていた。 イチコは真っ赤に染まった天井を見つめて、恐怖がそっと降りてくるのを感じた、ミキサーか何かでぐちゃぐちゃに潰された骨格のない泥みたいな人間の顔が、幾重にも重なって見える、呼吸音が生々しく聞こえる、寒気がする遠吠えのような甲高い音が窓の僅かな隙間から部屋に響き渡ってくる、赤いビロードのカーテンが揺れて、ひび割れたタイルの壁は、次第に真っ赤に染まっていく、盲目的に対面するのを避けていた過去の思い出が蘇ってくるのをイチコは感じた、赤ずきんは怯えているイチコのほうを見て、ゆっくりと言った。「あたし、少しずつ分かってきたのよ、カルロのこと。ずっと、昔に閉じ込めたまま、ずっと忘れていたのよ。」イチコはカーテンを開けて、窓の外から涼しげな月を見る、ゆっくりと目の中に月の光が溶け込んでいく、「分かったって、今更手遅れよ、私は何も出来ないの。」 遠くで物音がする、胸騒ぎのする奇妙な音、何処までも続く廊下を裸足で歩く、足の裏がひんやりと冷たい、獲物を捕らえた蜘蛛は逆さに空中から墜ちていく、糸を引いた斑模様の化け物の残骸、電燈はまばゆい光を点滅させながら照らして、カーペットの古いコーヒーの染み、続く猛烈な感情と怨みの在り処まで、続く女たちの報われない想いまで、メイは長い、白い衣服を引き摺って車椅子で廊下を引きずっていくのが見える、交尾をして赤子が生まれる、目が見開かない、玩具みたいな小さな歯を剥き出しにして威嚇する、ゴミと衣服の残骸の隙間に、割れた硝子の破片の隙間に、古ぼけた茶けたシーツが被さって、敷き詰められた女の人形たちがいる、嘆きの声が耳の鼓膜に響くのだ、白夜の空に生前の走馬灯を映して、キャミソールの肩紐が解けて、終らない懺悔の夜が始まる、キタナイミニクイワタシタチヲ、ホウッテオイテクダサイナ、イズレトキヲムカエレバ、テンニカエルトキガクル、コヨイフタタビ、オオカミガクル、壁に整然と並ばれた人形たちが想いを訴える、叫びは湿った雨音と連動して悲惨さを物語る、メイはよろめきながら進む、フランシスベーコンの絵の様な肉体への生成と崩壊の同居、死に向かわせるメロディの一音、一音が独立した優雅さ、鋭利な刃物のような暴力性、背後から支えるように抱き締めると、メイはもう冷たい人形だった、こんなにも苦しくて、こんなにも愛おしい、縋りつく術もない心の渦は、女を人形に還す、美しくある為にだ、コロシテホシイ、ササエガナイノヨ、コロシテホシイ、ゲンゾンスルモクルシイ、バケツを引っ繰り返して、洪水のように降り注ぐ女たちの念慮、シヘノメロディヲキカセテ、テンニノボルキッカケニ、ワタシハモウ、ドロヲカブッタ、オンナノシカバネダ、遥か彼方からやってきた天使の群れは儚くも方方に散る、シーナは白夜の空に向けて踊る、汗を掻いた肌は湿っぽく輝っている、オトコハミンナアクニンナノヨ、ワタシナンドダマサレタカ、サルシバイハモウヤメテ、タエラレナイノヨ、あたしは餓えているのだろうか、カルロという未知の存在に、どうしようもなく手が震えて、必死で探す、日曜日の昼下がりの公園の隅っこで、あたしと同じくらいの年恰好の女の子は、噴水で水遊びをしていた、ママは寂しそうなあたしの顔を見て、必死に明るく取り繕って、分からないとでも思ってるの、分かるわよ、ママ、幾らあたしが子供だからって分かるのよ、シーナは踊りながら涙を流す、初めて身体を売った日、寒空の中街路地に立って、レッドネックの禿げた中年の男に精液を顔にかけられたんだ、足元はカスタネットの響きと共にリズミカルに地中を鳴らす、オルゴールが聞こえる、アンティークのショップで買って貰った、古い木箱に入った小さな鍵盤は世界で一番小さな美しい音を奏でるんだ、そっと静かに眠りなさいというママの声と共に、シャベリタクナイ、カタリツクシタコトバヨリ、ワタシハアイガホシイノヨ、イチコは衣服を脱ぎ捨てて、ベッドに仰向けに寝る、微かな光に照らされて肌の質感が見える、カイラクハケッショウトナリハテテ、マイアガリ、ソラノウズニノマレル、駄目よ、ここにずっといたらあたし達も一緒よ、人形になるのよ、カルロを探さないと、ねえ、イチコも一緒に探そうよ、まだきっと間に合うわよ、ダカレテイルト、ナニモカモワスレテ、トケテイッテシマイソウ、もう駄目だわ、私は駄目よ、最後くらい綺麗でいたいわ、赤ずきんはイチコに化粧をする、肌が真っ白に塗られていき、少しも動かない、イチコが瞬きをするのだけが赤ずきんの目からは辛うじて分かる、二股に分かれた大木の割れ目から狼の群れは足音を殺しながらやってくる、空中に浮かぶ埃のシャワーに巻き込まれて、シーナは変わらず踊っている、汗がアスファルトに落ちていく、異常に膨れ上がった親指の爪の赤いペディキュアは餞の証だ、天へ向けての舞だ、ねえ、このまま動かないで海に流れ着くのよ、何にもない島で、空を毎日眺めて過ごすのよ、雲をじっと見つめていると、私何にもしなくていい様な気がするのよ、私がいなくても世界は動いてるんだって実感するのね、自分の小ささに押し潰されそうになる時、そのことをいつも考えるの、考えないと忘れそうなことを考える時間がここにはあるのよ、カルロが呼ぶ声がする、透明な花束を持って、あたしはカルロに会いに行こうと思う、ヤメナサイヨ、モウジキオオカミガクル、オオカミガクル、オオカミガクルワ、シーナは力尽きて地面に平伏す、ベタベタに衣服に染み付いた汗はやがて赤黒い血へと変わり、シーナもまた人形へと変わる、だからね、私ここに来て良かったなって思うの、昔は時計の針がチクチクと音を立てて襲ってくる様で息つく暇もなかったもの、私が生まれたところはね、バイクや車や人々が煩く犇き合って、人が人を押し潰す為に生きている、そんな街だった、そこで私は路上に立って身体を売っていたのよ、皆、心に空いた埋められない穴を埋めるために来ていた、どことなく寂しそうなのよ、私は人の役に立ってるんだって思ったの、今まで自分の価値を認められたことがなかったから、たとえ娼婦だろうと自分を軽蔑することはなかったわ、カラダガヨルニトケテイク、アナタガイキタマチヲミテ、アナタガイキタソラヲミテ、踝みたいな大きな石を投げつけて、粉々に砕けていく過程がスローモーションで蘇る、きっと幻影は見えざる対象は、カルロへと変質していったのだ、もうすぐ会える、カルロはもうすぐ傍まで来ているんだ、あたしはスカートを捲って、霧ががっていて見えない向かう側に行くんだ、ヤメナサイヨ、ココデミンナデトケテイクノヨ、ウツクシクアリサエスレバ、ドンナユメヲミタッテ、カマイヤシナイ、ハイニナッテイクカテイヲ、ダレニモミセタクナイ、ワタシタチノキズナ、ねえ、どこを見ているのよ?もうすぐ迎えが来るわ、私たちは無に還るのよ、苦しいことなんて何にもないわ、そうでしょ、会うべきじゃないのよ、私は私であなたはあなたじゃないの、こうして今まで生きてきて不自由なことなんてなかったわ……止めなさい、やめな・・・灰色に染まっていく空を窓から見て、あの日もまた雨だった、アスファルトの上を車輪が転がった、ガタンゴトンガタンゴトン、電車のレールのつなぎ目みたく一定区間を通ると揺れた、乗っているのは古いおもちゃ箱、何でも入っている古いおもちゃ箱、水色のプラスティクの水鉄砲、古い布でできたお手玉、赤いビニール風船、ゼンマイ仕掛けのからくり人形、木製のオルゴール、もう全部取り出してしまった、もう中身はからっぽだ、たくさん雨が降った日、遠足は中止になった、あたしは真新しい赤い長靴を穿いて出かけた、泥水でできたまんまるの水たまり、足を入れるとぬかるんで、どこまでも深く落ちてしまいそうになった、このまま足を出さなければずっと帰れないのかな、やがてママが来てあたしの手を引っ張った、さあもう帰ろう。カルロはそっとあたしを見つめていた。

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