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誰も分かってくれない

「それでもどこかに自分を分かってくれる人がいる」なんて思っていた?

もう、絶対的な理解者なんて必要ない、私が自分のことをわかっていれば、それで十分だと前に書いたのに…。


しらみつぶしは重要。「この人ならわかってくれるだろうか?」「きっとこの人なら」「まだあの人がいる」その可能性は早く確かめてしまった方が良い。少しでも希望を残してしまうと、いつになっても「私は元から1人」ということに気付けないからだ。

そしておかしいことに、自分が1人であることに気付くと「あぁみんなそうなんだ」と気付きその平凡さと傲慢さにちらっと嫌気がさしている気がする。勝手だなぁ。

「みんな」がそんなことないように見えるのはあたかも「みんなはそうではない」とみんなが思い込んでいるように見せかけてくるからだ。

人は情報であり刺激であり「私」というものを惑わしてくる広告である。

外に出て人と触れ合えばどんなに気を張ったって何かに洗脳される。

そんな考えで引きこもるのは幼稚で脆い計画だろうか。ただの逃げであり、いつかは殻を破って一歩踏み出さなきゃいけないのだろうか。

もしまだ誰かと繋がりたい、自分を分かってくれるたった一人と出会いたい、と思うなら愚策でしょうが、「人は元々一人」ということに気付けたなら案外まともな結論でしょう。

誰にもわかられなくて当然。自分の辛かったこと、大変だったこと、傷ついたこと、死にたくなったこと、私が全部わかってあげる。私が間違っていたことも、悪かったことも、未熟だったことも、私が全部知っている。私は見ているしずっと一緒にいる。生まれたときから死ぬときまで、私が全ての感情に共感している。肯定している。だめで良いし卑屈でも良いしみじめでも良いしケチでも良い。全てを私が許している。このままで大丈夫。今のままで十分良いところもあるし悪いところもあるから。

―――――― 今度はうまく、洗脳できるかな。

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