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無気力の原因は、男性性・女性性のバランスの崩壊と自己執着である

私は鬱状態が酷い時期に、何もかもやる気がなく人生そのものに絶望していた。とはいえ何とかして抜け出したいがため、色々情報を漁っては試してみる。

「自分の好きなことをしよう」「ずっとやってみたかったことをしよう」「もし何もお金の心配がないとしたら、何の制限もないとしたら何をしたいか」「嫌なことはしない、どんどんやめていこう」などといろんな情報があった。とにかくたくさんの情報に触れ、片っ端から試してきた。

しかし、一向に精神状態が良くならない。参考にして、いわゆる私が思う「自分の好きなこと」をしたはずなのに、ひとつも人生が良くなっていかないのだ。



男性性と女性性のバランスの崩壊とは

私は確実に、自己執着に陥っていた。そして、自分の中の男性性と女性性のバランスの崩壊を起こしていた。

※女性脳や男性脳とやらは存在しないというのが昨今は承知の事実で、私もそう思うが、とりあえずここでは分かりやすく「女性性」「男性性」と表す。

そしてこの女性性と男性性は、どの人間の中にも存在するものとし、その時のその人間の精神状態によって比率が偏るものとする。または「依存性」「自立性」という言葉に置き換えてもらってもいい。(とにかく言葉尻りがどうこうというより、ニュアンスで伝わってほしい)。

女性性…自分の心のうちや感情を感じ、他者に表面するのが得意、柔軟、依存的、協調性、目に見えないものへの興味関心、同意より共感

男性性…理屈・理論重視、現実主義、自立心、独立、回避的、目に見えるものへの興味関心、物質主義、感情の表明は苦手、共感より同意

↑ニュアンスとしてこのような意味を含める。※「女性がこう」「男性がこう」ということではなく、この記事でニュアンスを説明するにあたってこの文言が伝わりやすいのでこれらを用いる。

自己執着とはコントロール

話を戻すとして、自己執着とは、文字通り自分への執着である。

私はずっと、昔から周囲に配慮しているつもりだったし、人に気を遣っているつもりだったし、人のために動いているつもりだった。けれど、それは他者への愛情(主体性)ではなくエゴ(自己満・押し付け)だった。

それらは私自身のイメージを守るための、自己執着に過ぎなかった。それは優しさや思いやりではなく、自己執着であった。

「配慮する私」が周囲にどう映っているのか、を気にするのが自己執着である。周囲が私へ抱くイメージや感情を、コントロールしようとしていた。

「配慮するから、気を配るから、だから周りの人は私のことをこういう風に思いなさいよ」というメッセージを無意識に込めての行動であった。自己のイメージを守るために必死だった。

次第に、生きる気力がなくなる。やる気がなくなる。そしていろんな情報を漁っては、「そうか、周りを気にせずに、私は私のやりたいことを貫けばいいんだ」とまたしても頓珍漢な解釈をし始める。鬱状態の時の選択がいかに危険かよくわかる。

そして我を通すようになった。気分が変わればこれは嫌あれは嫌だと言い、泣いたり怒ったり、子供のような振る舞いが増えた。

そして、確実に女性性過多になっていた。現実を無視し、感情だけで突っ走る。人間は自己執着をした上で女性性と男性性のバランスが偏ると、精神が不調になようにできていると感じた。

「夜と霧」から考える他者へフォーカスと気力の回復

そんな中、私が少しずつ回復の兆しが見えてきたのは、うちなる男性性(現実的なアプローチ)を少しずつ取り入れ、自分の中の不健全な女性性を抑え、かつ自己執着を手放しはじめた時であった。

自己執着を手放すというのは、一旦「自分がこうしたい、こうなるべきだ」ということは置いといて、「他者のために、自分は何ができるか」「他者のために自分という人間をどう活かせるか、それによって自分も幸せになる選択は何か」を客観な視点で考えることである。

皮肉にも男性性を取り入れ始めると、うちなる女性性も健全に発揮できるようになるのだ。

少し話は逸れるが、「夜と霧」という本では主体性を持ったうえで他者貢献をすることを目的とし、そして生きることについて書かれている(と解釈した)。さらに、それを目的にした者だけが過酷な状況でも生きる活力を得た(生き延びた)というような旨の内容だ。(かなりざっくりとした説明だが、私も実は動画のまとめでしか概要を知らない。いつかじっくり読もうと思っている)。

夜と霧の中には、この本を代表とするこの有名なフレーズが出てくる。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ

「夜と霧」 V・フランクル

いわゆる、「自分が人生に何を期待するかではなく、人生が自分に何を期待しているのか」ということだ。

このフレーズは、自己執着を手放して他者貢献へと生きる意味を見出し、健全な精神を取り戻すことに直結すると私は考える。

私は夜と霧のまとめの動画を見て、大まかに得た感想としては、とにかく自己執着(生きる意味のベクトルを自分へ向けてしまっている、自分へフォーカスしている場合)はただの期待でしかないという解釈だった。自分のことに集中して生きるということを、決して履き違えてはならない。一見主体性があるように感じる部分もあってタチが悪い。

他者と自分のために主体性を持って生きることが、本当の意味で生きる活力につながる。それが生きる意味である。それは期待ではなく、愛情(主体)である。

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