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持続ではなく縛り付けという視点


人間関係の形成は、ほぼ全てプロジェクトベースドであるという事実を前提として、不意に立ち現れる共同性により、その輪郭を明らかにする。プロジェクトがプロジェクトである限りは突発的なものでありひとまずは単体でどこかで区切りとして終了するものであることは間違いないのだけれど、それでも続いていく関係性があるとしたら何だろうか。


それにしても、持続への道筋というより、その関係が人間をどう縛り付けているのか、その縛り付けこそが共同性が存在した証拠であるのだろうと考えてみた方が良いのかもしれない。他人と活動するということは自分自身をいやがおうにも変えてしまう縛り付けの可能性に身を投じるということなのだと最近は思うようになった。


あの面白いお店に行こう、これこれの体験をしてみよう、あの山に登ろう、散歩しよう、読書会で本をしっかり読み切ろう、と複数人で試みるプロジェクトを立てることがある。しかし、それが終わったら、ひとまず関係は終わる。まあ、ごくたまに思い出して連絡を取ったり会うとかしたり、その程度である。頑張って新しい計画を立てれば、気が向いたときに乗ってくれるかもしれないけれども。


3年後には卒業し離れ離れになってしまうことが分かりきっているのに、なぜ学校では他人と親睦を深めたり一致団結を図る必要性があるのだろう。自発的にではなく当たり前のように強制される行事も、やってみれば熱中するといったこともあるだろうけど、それになんの意味があるのか。そこにかける期待は何だろう。大人になると大変だとか、いまのうちしか青春ができないとか色んな想いがあるのかもしれない。全体への奉仕などは要求されておらずとも、未だ経験し得ない未知への可能性に対する自身のエネルギーの純粋な投資、幼心に抱く学校という場所の原風景という想定により突き動かされている。


縛り付けがそうである理由は反復しようとするからである。社会人になると学生時代に形成された世界観や「自分はこう生きてきたし」という呪い「既にこうである」という前提で判断を下すしかなくなる。生育歴と行動パターンと価値観が自分の行動を良くも悪くも限定してしまう。同窓会で同じ出身校の友人を見ていても、結局は同じような文化の中で生きてきたのだなと感じさせるようなことは少なくない。最初に一瞬だけ存在した共同性を反復しようとするあまり、それに縛られて何かを指向してしまうことを避けられない。


人間関係は持続しないのが常だとしても、共同性の残り香に強く縛られるのなら、自分自身を抜け出してしまうような共同性に身を投じた経験がそこにあったということなのだろう。同じ状況を分かち合っていて、同じ方向を向いていたとしても感じ方はひと次第だから、それを一体感と呼んで良いのかが不明だけども…。


プロジェクトそのものにも意味がない。しかし、こうなりたい自分とか、目指すべき自分とか、純粋な好奇心が他者の存在を惹きつけながら、自分自身を縛り付けていくことを避けられないでいる。青春への憧憬が語られたり、学校という場所がなくならず、共同性を獲得するための課外活動や行事が多くの国民の同意の上で行われていることを踏まえても、人間は他者との共同性を何らかの理由で必要としていることは当たり前のように分かることだ。


語ることによって縛り付けの呪縛の負の側面から逃れ得て自由になれるという側面もある。文字にして分析と反省を自分自身から分離させ浮遊させることで完全な過去のものとして、自身が生まれ変われるかもしれない。繋がりに対する諦めと切断のうちに残ったものだけが自分をまた新たな別の場所に連れて行く可能性になるのだと信じたい。


共同体が敗北の積み重ねによってのみ成り立っており、いつでも負け続け、勝利の瞬間が一瞬もしくは幻に過ぎないということを知らない無垢さを世界は許さない。その幸福な勘違いが既に身を滅ぼしつつあることについて知り得ない鈍感さを自分は断じて冷ややかな目で見ている。共同体は解散し僕たちをいつまでも縛り続けるのだ。

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