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【映画感想】ハリーポッターシリーズ

はじめに

今年から動画配信サービスNetflixに加入して、映画やアニメを見始めた。
過去にGEOだとかTSUTAYAだとかの会員カードを作った経験からすると、加入も視聴も定額料金で十分お釣りが出る気楽さだった。何より外に出なくても完結したのが嬉しい。

自己分析になるが、私は映画やアニメにそれほど浸かる体験こそなかったものの、要約するとオタクっぽい趣味嗜好をしている。
そのくせ大衆行動的な理由で作品に触れることは忌避していたため、むしろ有名作品に対するコンプレックスがあったせいで、オタク仲間っぽい人との会話ですら話題に困る始末だった。必然的に友達がいない。
そうするともう、中途半端にオタクっぽいことすらコンプレックスの材料になってしまう。
だから、興味はあったけれどあまり手を伸ばしていなかった映画やアニメの有名作品について、たくさん見てみようと思う。視聴後の覚書として、見てみた感想をnoteに綴っていく。
手始めに『ホグワーツ・レガシー』が近日発売されるとあって、ハリーポッターシリーズを一気見してみる。


ハリーポッターシリーズの概要

ということで、まずはハリーポッターシリーズを見てきたわけであるが、私以外の人にとっては概要の説明なんていらないと思う。
主人公ハリー・ポッターが実は魔法使いで魔法魔術学校に入学したから、自らの過去と謎つまりは宿命を解き明かしていき、魔法界最恐のヴォルデモート卿を打ち倒す物語だ。
読み飛ばしてもらったところで、作品世界は何ら損なわれないし、その損なわれないというイリュージョンがハリーポッターシリーズだと思ってもらえれば結構だと私は考えている。
魔法呪文とか一つ出るだけでワクワクするでしょう?

「推し」は誰か?

ところでこの物語における「推し」は誰かいる?という話をしたい。
私はダンブルドア校長先生とスネイプ先生だ。一言にまとめるならば、ダンブルドア校長先生がホグワーツ魔法魔術学校の象徴で、スネイプ先生がたった一人を愛する心の象徴となっていた。
だからという話ではないものの、二人こそが物語の秘密をずっと握り続けていた存在であり、不思議を解き明かすキーマンになっている以上、時に不気味で時に頼もしく、美しいキャラクターだと「推し」ておきたい。
主人公ハリーはだいたい作品タイトルごとに一学年成長していく。その間ハリーがヴォルデモート卿の手下が画策した陰謀を阻止するあらすじとなっている。やがて3年生から上の学年になると、魔法界のいざこざを含めて、ヴォルデモート卿にはっきりと命を狙われる。まごうことなきピンチである。ところが、ダンブルドア校長先生は魔法界きっての強力な魔法使いであり、スネイプ先生はヴォルデモート卿に仕える闇の魔法使い集団死喰い人の一員だった二重スパイ。ヴォルデモート卿にとっても超えるべき師、そして腹心の部下という点で無視できない存在だった。二人の庇護によってハリーは、簡単には殺されなかったのだ。
さてハリーには両親がいない。闇の魔法使いを検挙する闇払いとして、ヴォルデモート卿に歯向かった結果、赤ン坊のハリーをかばって死亡した。そこにハリーとヴォルデモート卿の因縁があるのだが、重要なのは父が他界しているという点だ。
なぜならハリーは名づけの親シリウス・ブラックと出会って以降、自分にとっての父親がわりとなる存在を探し続けている。年上の男性との関わりの中で、成長や失意を味わい続ける。その代表的な人物がダンブルドア校長先生とスネイプ先生だ。
二人の包容力と威厳、そして個人としての失策やディスコミュニケーションは、主人公の視点を通さずとも圧倒的な魅力を放つ。ハリーポッターの世界は二人の父親によって具現化していると思った。
と、かなりあいまいな書き方になったが、ハリーポッターにとって重要なことが、私にとって重要だとは限らない。実のところ、この映像作品に共感できるようなキャラクターはいないが、二人の命をかけてハリーを守った生き様は執念深い強い愛情を感じて好きだ。ついでに私が、おひげや冷徹なまなざしのキャラクターが好みだとしてもそれは、二人が「推し」であるということの最大要因ではない。

魔法シーン

小説は全編読んだ。読んだが冒頭と結末しか覚えていなかった。
膨大な冒険だったからこそ、印象に残らないことがある。ちなみに一作目の映画が公開されてから、すでに20年の時が流れた。忘却呪文がなくても忘れるのも無理はない。
では今回見終えて印象に残ったのは何かといえば、やはり映像だからこそ迫力ある魔法シーンだった。
魔法シーンの映像はかなり重要だと思う。何より映画でしか見ることがかなわないといえば魔法だろう。かりに他は全部おまけだと制作会社に言われても不思議だとは思わない。
人間、一度見てしまうと簡単に納得してしまうのかもしれない。なるほど、そりゃ同時代のみんなが映画館へ足を運んだわけだと感じ入った。
杖を振って呪文を唱える、あるいは杖を向けるだけで何かが起こるなんて、改めて見るとそうそう種類は生み出せないはず。そのはずなのに、バーゲンセール中の投げ売り商品みたいにポンポコ出てくる。
魔法界の魔法は技術だから、湧き出るいくつもの魔法が一作ごとに輝いている。日常的に使う魔法も、誰かを守る魔法も、禁じられた呪文もすべては魔法使いの研鑽の歴史によって生み出されたのだ。
たとえば光が灯った瞬間に爆発で照らすなら嫌だけれど、じわじわと光源が膨らみ、あたりを照らしていって、深い闇の中だったらなら光源から離れるほどに影が強く光を飲み込んでしまう。そんな自然現象をあたりまえに、魔法は魔法として機能する。魔法使いは杖の先の光が、闇の中での頼みの綱となる。
そういう魔法をあたりまえに見られたことが私は嬉しかった。

おわりに

さて、つらつらと感想を綴ってみたものの、書ききれなかったことは多量にある。それは胸のうちにしまって、一旦は記事の締めくくりとしたい。
ハリーポッターシリーズを全編きちんと見るのはなかなか大変だったものの、ハラハラドキドキを体験できて幸せだった。現在遊んでいる『ホグワーツ・レガシー』も、ホグワーツ魔法魔術学校を中心として映画に見た場所を見つける喜びなど、多重的に楽しめている。
何だかんだ楽しめているなら、私はやはりオタクなのかもしれないし、オタクでなくとも知らない世界を一度煮詰めて攻略してみるのは、自分の価値観を更新してくれる気がする。普段ならまずもって使わない「推し」という概念も、ダンブルドア校長先生とスネイプ先生を自分と関係づける言葉が欲しくて多用してみたが、新鮮な気持ちになれた。
これはオタク的な自分を探すいわばオタク探しの一環として正解だった。
次回の記事は未定だ。

(2023年2月19日更新 やつやはろ)

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