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【映画感想】ジョーズ

はじめに

個人的な話だが、昔は恐竜などのデカい口と牙が苦手だった。飲まれる恐怖というのは、案外想像しやすい範疇にあったのかもしれない。
だからサメの恐ろしさも想像しやすかった。その恐怖も想像として分別がついたころ、いつか『ジョーズ』を観たいと思った。
そんなようなことを、ジュラシックパークシリーズを視聴しながら思い出した。だから視聴するまでの『ジョーズ』は恐竜に慌てふためき逃げ回り、脱出する物語を思い描いていた。
ところが私のイメージからかけ離れ、まるでジョーズは、小市民的なしがらみに閉じ込められた主人公たちの檻を破壊するためにやってきた、恐怖の使者だった。
私の感じる『ジョーズ』の面白さは、その「恐怖」についての物語だ。

恐怖の鈍化

人間とサメ

『ジョーズ』の舞台設定と構成は、きれいな簡潔さだ。
牧歌的な小島に訪れた人食いサメという「恐怖」の象徴が、人々の平和を切り裂きかき乱し、その舞台を海に移して討伐の希望を担った主人公一行が決戦に勝利する。そういうはっきりとした、物語の展開と結末がある。
その舞台は陸と海とで対比となっており、その環境において生きぬく力がある人間とサメとが、舞台的な境界線を越えて死闘に至る。人間が「恐怖」を乗り越えるドラマだ。

肩透かし

ところで、人食いサメを取り巻く状況が日和見的だと思った。
波間を切り裂き近づいてくる背びれの不気味さ、立体的で巨大な口で迫ってくる恐ろしさ、いずれも緊張が走るショッキングな場面だ。それにもかかわらず、物語が進むに従って肩透かしを感じ続けた。その原因はおそらく人食いサメの登場によって起こるのが一瞬の緊張でしかなかったためだ。
冒頭から若者グループの一人の女性が無残な死体が発見された事件、その後に海開きで子供がサメに捕食された事件と、危険が明確になった状況で市民の代表会議が行われた。
ところが人食いサメの存在を否定する者やかき集めた素人サメハンターの懸賞金を渋る者、観光客の流入を止めたくない者といった小市民的な参加者ばかりで、肝心のサメ被害という問題についての議論はほとんどなされない。
また専業サメハンターのクイントは1万ドルなら討伐していいと主張したが、それほどの大金を支払うなら懸賞金で片づけた方がいいという運びになる。
だから小島で平穏な暮らしを送ってきた住民たちは、人食いサメという危険に対する備えも想像力も持ち合わせていない。人食いサメにそもそもリアリティがなく、金の行方や小島の観光経済の方がよほど優先される。そうして「恐怖」への感度が鈍化した住民たち自体が、サメ被害を継続させていた。

長引かせる努力

住民たちのパニックが繰り返されることで、ようやく状況が変わっていき、無視できないリアリティとなっていく。無視は努力の成果だが、一般住民にまでサメ被害の警告が下りるのは海開きの日に、子供が食い殺されたあとだった。警告と中止よりも海開きを優先させた市長たちに、ブロディ署長も最初の被害者である大学生グループの女性の件を口止めされていたためだ。
小市民的な世界観は問題を長引かせ、解決を求めて判断を仰ぐ者にがっかりさせる。がっかりした者も行動しないなら、問題を長引かせる努力に加担してしまう。小市民は屈辱と忍耐が必修科目なのかもしれない。
人食いサメなどいない、人食いサメはもういない、人食いサメは去ったに違いない、きっといなくなったに違いない。そうした忘れようとする努力を、人食いサメは食いちぎり台無しにして、パニックが繰り返される。
そこにブロディ署長も加担していた。彼も弛緩とパニックの一員だ。ただ、観光の海水浴客が流入した時、入江で友達と遊ぶ自分の子供が人食いサメに襲われたことがきっかけとなり、彼は動かされる。ちなみに、子供が入江にいたというのは市長も同じ境遇だった。子供のためという事情でなら、サメ討伐への決心がつくのだ。

幻想

人食いサメの出現から、討伐に出るまでが長い。安全だった場所から抜け出すためには、自分にとってリアリティのある動機を必要とする。小島の世界観からすれば、「恐怖」はそれほど遠かった。
なぜ長引かせる努力が必要なのかといえば、金銭的な理由や討伐の不確実性なども挙げられるが、特に小島が「休息」のための保養地だからだ。
きれいで開放的な自然が目玉となっている小島は、都会から見ると疲れを癒してくれる魅力的な保養地と映る。しかし「休息」と「恐怖」は相いれない。
「休息」のための保養地として存続しなければならない以上、「恐怖」があってはならない。まして未確認の人食いサメという存在かもしれないのだ。管理規則のような事前準備もありはせず、正確な対処方法も不明だ。
だから実際に危険が訪れたと知っていても、命がけの討伐という選択肢を保留できた。もちろん「恐怖」がないという状態は現実にありえないので、「恐怖」があってはならないとは「休息」という幻想、つまり気休めの共有だ。体を休めるだけならそれでもよかったのかもしれないが、小島に来訪した「恐怖」に対しては無力にちがいない。

緩慢さへの抵抗

ブロディの「恐怖」

ブロディももともと小島に赴任してきたのは、都会での職務に疲弊して田舎での暮らしを望んだためだった。都会は潜在的に心が休まらない場所ということだが、サメの脅威にさらされて我が子を失いかねないことがきっかけとなり、彼は人食いサメの討伐に乗り出した以上、いくら取り締まっても犯罪が多い都会では子供の成長を見守れないという不安もあっただろう。
しかし安全だったはずだった小島も「恐怖」の出現によって、心が休まらない場所となる。ブロディは警察署長としてよりも、父親の仕事として海へ出た。それが『ジョーズ』のドラマかもしれない。

頼れる者

小市民的な世界観を食いちぎるような「恐怖」がひとたび現れてしまうと、生活している世界観の外へ飛び出せる者になるか、飛び出せる存在に託さざるを得ない者になるか、分かれる。
少なくとも専業サメハンタークイント、署長ブロディ、海洋生物専門家フーパーの三人は討伐に乗り出した。サメの息の根を止める狩猟の物語だ。
狩猟に出たとはいえ、ブロディとフーパーは素人だ。そこではクイントに頼らざるを得ない。クイントは荒くれ者だが、サメハンターとしての能力と経験がある。サメの「恐怖」を熟知している。だから二人にとってクイントは、「恐怖」に関する先生だ。
ちなみに、三人が夜中に船内で酔っ払い、勲章のように古傷を見びらかし、互いの経験を確かめ、からかい合う。ブロディは古傷がほとんどないから居心地悪そうにしているのだが、ほか二人は別段気にしていないのもおもしろい。そして唯一明かさなかった腕の傷跡について尋ねられたクイントは、ブロディとフーパーに戦時中体験した人食いサメの話を語り聞かせてくれる。鋭敏な「恐怖」の経験に二人も押し黙る。そうして物語を共有した三人は一緒に歌を歌う。そのシーンがお気に入りだ。

死闘

さて、一夜明けて再戦となる。余裕ある人食いサメに対して、三人は窮地に立たされる。計三つの浮き樽を取り付けてもサメの体力は衰えなかった。作戦が通用しなかったクイントは帰還せざるを得ないと判断するが、不運にも海水をかぶったエンジンが故障を起こして船が停止してしまう。残された手段は、フーパーが持ち込んだ毒薬を粘膜に突き刺す作戦だが、檻は体当たりによって壊されてしまい、フーパーも海底逃げ延びるほかなくなる。さらに船尾も壊されて足場が傾き、人食いサメが体を乗り上げて大きな口でクイントとブロディを待ち構える。クイントはしがみつくことに失敗し、船外へ放り出されて食い殺される。力強く頼もしかった船長が悲痛な叫びをあげて、じわじわと飲み込まれながら血を吐き出し、ぐったりとした姿で海中に引きずり降ろされて消える様はとてもグロテスクだ。

沈みゆく中しがみつく

当然ブロディもそのままでは危険で、緩慢にも沈みゆく船をよじ登りマストにしがみつきながら、銛とライフル銃で抵抗する。最後はサメの口に放り込んだ圧縮空気ボンベを打ち抜いて、体内からの爆発によって死闘を制す。フーパーも海底から戻ってきて、事態の決着を把握する。
最期は弾けて消えてしまうのだから、人食いサメとはいえシャボン玉みたいな儚さがあるシーンだった。もちろんシャボン玉は人間を食い殺さないが。こうした海での死闘を見ていた時、「恐怖」の緩慢さが気になった。いつ海中から襲ってくるかわからない、見えない状態が人食いサメの生態だ。それを阻止するための浮き樽だったのに、人食いサメには通用しなかった。だからクイントは陸へ戻らなければならないと焦ったのだ。本当に危険なのは、「恐怖」以前にある緩慢さかもしれない。樽作戦の失敗、船の故障、船体の破壊といった人間が海で戦うわずかな力を次々奪われてしまうのに、彼らはそれをどうすることもできない。
「恐怖」の緩慢さは人間を身構えさせた状態に留めてしまう。船上であっても襲われるかもしれないとわかっているから、主導権を握られつづけている状態だ。海の緩慢さは陸での鈍化に対して、「恐怖」との距離が近く、じわじわと状況が悪化する中で死の予感がある。気を休める時はない。
しかし船体の足場が崩れていくにまかせて、飲み込まれるわけにもいかない。「恐怖」に飲み込まれそうになるなら、高い場所へ逃げてしがみつくのだ。それはブロディがはじめて見せた、緩慢さへの抵抗だ。しがみついて闘い、「恐怖」が消えた時、心理状態の主導権は彼のものとなる。

おわりに

思えばじっとするシーンが多い映画だった。それは登場人物が待たされているシーンだったからだ。そのような「待て」という制止のあとから、『ジョーズ』の「恐怖」は現れる。
陸と海とで、その状況は異なる。陸では人間が恐怖を鈍化させて問題を引き延ばす。海ではサメが足場を崩して主導権を奪っていく。ただ、どちらも抑圧することは共通している。
ところで、エンドロールは浜辺の遠景で、小島まで泳ぎ切ったブロディとフーパーが仲良く陸に上がって帰り着いた様子だった。そのブロマンス的な情景もおもしろいと思う。
「恐怖」は乗り越えた時に成長を感じさせ、その後のことは、乗り越えたその人が決めればいい。ひとまず彼らは抑圧を振り切った。海を泳ぎ切った二人の姿に感じた開放感が、それだと思う。
いまさらながら『ジョーズ』を視聴してみて、パニックホラーにおける怪物像は自分の好みではないなあと思ったが、父親のしぶとい奮闘が最後まで貫かれていておもしろかった。しがみつくことは、重要な生存本能だと思う。

(2023年5月15日更新)
(2023年12月21日更新)
(2024年1月3日更新)

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