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【試し読み】『令嬢探偵ミス・フィッシャー 華麗なる最初の事件』(ケリー・グリーンウッド [著])

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『令嬢探偵ミス・フィッシャー 華麗なる最初の事件』
ケリー・グリーンウッド[著]
高里ひろ[訳]

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彼女は往(ゆ)く、海緑色の壮麗さのまんなかを
……引き返せないその道を

『The Paltry Nude Starts on a Spring Voyage』ウォレス・スティーヴンズ   

ガシャン!フランス窓のガラスが割れる音が響いた。客たちの悲鳴。
人々の声をかき消すように、大使夫人であるマダム・サンクレールが甲高い声で叫んだ。「なんてこと、わたしの宝石(シエルメ・ビジュー)!」
フライニー・フィッシャーは静かに席を立ち、煙草(たばこ)用のライターに手を伸ばした。今宵(こよい)の晩餐会(ばんさんかい)はずっと退屈だった。たしかに今年いちばんと言っても過言ではない社交行事であり、フライニーの母の周到な準備のおかげで料理はすばらしかった――でも会話はつまらなかった。彼女の席は、退役したイギリス領インド陸軍大佐とアマチュアのクリケット選手にはさまれていた。ハーパー大佐は料理について場にふさわしいコメントをふた言三言つぶやいただけだったが、件(くだん)のクリケット選手であるボビーは、州大会の全試合における自分の投球(ボウリング)についていくらでも話すことができたし、じっさいにそうした。しばらくして、とつぜん照明が消え、窓ガラスが割れたのだ。
『ウィズデン・クリケット年鑑』のような長ったらしい解説を中断してくれるものならなんでも大歓迎だわ、とフライニーは思いながら、ライターを手に取って、火を点(つ)けた。
ちらちらと揺れる火明かりのなかに浮かびあがった光景は混乱していた。なにかというとよく悲鳴をあげる若い娘たちは、やはり悲鳴をあげていた。フライニーの父はフライニーの母にどなっていた。これもよくあることだ。紳士たちのうち何人かはマッチを擦り、使用人を呼ぶベルを引いた人もいた。
フライニーは人々をかき分けてドアのほうへ進み、そっと玄関広間に出た。ヒューズボックスの蓋が開いたままになっていて、“主電源”と書かれたスイッチが切られている。彼女がスイッチを入れ、明かりがぱっと点くと、ジンで酔いつぶれている人をのぞいて、みんな我に返った。そして芝居がかったしぐさで喉元に手をあてていたマダム・サンクレールは、旧ロシア皇后の首飾りの石も使われているという評判の、ダイアモンドのネックレスがなくなっていると気づいた。彼女の悲鳴はこれまでの悲鳴のなかでいちばん大きかった。
ボビーは、なにが起きたのかを驚くほどの速さで理解し、息をのんだ。「大変だ!マダムがネックレスを盗(と)られた!」
フライニーはふたたび騒ぎを抜けだしておもてに出ると、ガラスが割れた窓の、前の地面を観察した。
窓の向こうで、ボビーが思いついたように言っているのが聞こえた。「泥棒は窓ガラスを割って、そこから侵入し、お宝を盗んでいったんだ!大胆な手口じゃないか?」
フライニーは唇を引き結んだ。彼女はボールを見つけ、つま先でつつき、それを拾いあげた。クリケットのボール。足の下でガラス片が音をたてる。ほとんどの破片が窓のそとに落ちていた。フライニーは通りかかった庭師の息子をつかまえて、晩餐室に梯子(はしご)を持ってくるようにと命じた。
ふたたび晩餐室に戻ると、父の腕を取って脇にひっぱっていった。
「おまえにかまっている暇はない。こうなったら、全員の身体検査をしなくては。ああ、公爵はどう思われるだろう?」
「お父さまがあのボビーを彼らから離してくださったら、そんな面倒なことをしなくてもいいようにしてさしあげるわ」
「どういう意味だ?彼は征服王ウィリアム以来の古い家柄だぞ」
「ばかなことを言わないで、お父さま。彼がやったのは間違いない。彼をこっそりみんなから離さないと、身体検査で公爵を怒らせることになるのよ。いいからボビーを連れてきて。それにあの退屈な大佐も。証人になってもらいましょう」
フライニーの父は娘に言われたとおり、大佐とふたりで若いボビーをはさむようにしてカードルームに連れてきた。
「なあ、どういうことなんだ?」ボビーが尋ねた。
フライニーはきらめく目で彼を見つめた。「窓を割ったのはあなたね、ボビー。そしてネックレスを盗んだ。ここで罪を認める?それともわたしの推理を言いましょうか?」
「いったいなんのことか、さっぱりだよ」彼は言ったが、フライニーがボールを見せるとその顔色が変わった。
「これがおもてにあったわ。窓ガラスの破片もほとんどがそとに落ちていた。あなたはヒューズのスイッチを切り、このボールを窓ガラスに向けて投げて、派手に割った。それからマダム・サンクレールの何重にも飾られている首から例のネックレスを盗んだ」
ボビーはほほえんだ。長身で、栗色(くりいろ)の巻き毛と、まるでジャージー乳牛のような深みのある茶色の目をしている。彼はそこそこ魅力的で、その魅力をぞんぶんに発していたが、フライニーには通じなかった。
ボビーは両腕を広げた。「もしぼくが盗んだなら、どこかに持っているはずだ。探してみればいい」彼は申しでた。「盗んでからどこかに隠す時間はなかった」
「その必要はないわ」フライニーは言った。「晩餐室に行きましょう」
そこで一同は晩餐室に移動した。庭師の息子が梯子を立てると、フライニーは大胆にも梯子をのぼり(あとで母が教えてくれたことには、見守る人々に人造宝石(ディアマンテ)飾り付きのガーターまで披露して)シャンデリアからなにかをつまみあげた。無事床におりたつと、それをマダム・サンクレールに見せた。するとマダムは、まるでだれかが蛇口を締めたかのように、ぴたっと泣くのをやめた。
「あなたのですか?」フライニーがマダムに確認すると、先ほどまでボウリングのコントロール自慢をしていたボビーは小さくうめいてカードルームに戻った。
「いやはや!見事な推理だった!」面目まるつぶれのボビーが帰宅を許されたあとで、大佐は熱をこめて言った。「頭の切れるお嬢さんだ、感心したよ!あした、わたしと妻を訪問してくださらないか?個人的な相談があるんだ。あなたこそ、まさにわれわれが探していた人かもしれない」
大佐はしっかり結婚しているうえに軍人としての名誉を重んじる人物であり、フライニーの純潔(というかその残り)をおびやかすとは思えなかったので、彼女は承知した。
そしてあくる日、イングランド人がお茶をいただく習慣の時間に、大佐のカントリーハウス〈マンダレイ〉を訪ねた。
「ミス・フィッシャー!」大佐の奥方が勢いこんで言った。彼女がこれほど前のめりになるのは、めずらしいことだった。「どうぞお入りになって!大佐から、あなたがどうやってあの男の仕業だとつきとめたか聞きましたよ。前から信用ならない男だと思っていました。パンジャブ州にいた准大尉助手に似ていて。その男は食堂予算を使いこんで……」
フライニーは屋敷のなかに迎えられた。デザートをいただいたあとも歓迎ムードが続いたので、おかしいと感じはじめた。このように尋常ではない歓迎を受けたのは、ある地方の名門一家が、最悪の女たらしの息子とフライニーが結婚すると思いこんだときのことだった。その息子と一、二回寝たからという理由で。フライニーが結婚する気はないと断ったら、まるでヴィクトリア時代初期のメロドラマさながらのシーンが展開した。もしかしたらそのせいで、わたしは人の善意を素直に信じられなくなってしまったのかもしれない。
フライニーは黒檀(こくたん)製のテーブルの席につき、とても高級な紅茶の入ったカップを受けとった。部屋には青銅製のインドの神々、彫刻と象嵌(ぞうがん)をほどこした箱、豪華なタペストリーがはちきれんばかりに飾られている。彼女は、四本の腕をもつ殺戮(さつりく)と恐怖の女神カーリーが黒い手のひとつひとつに生首をかがげ、死者の上で踊っている像から無理やり目を離して、なんとか会話に集中しようとした。
「相談したいのは娘のリディアのことなのだ。心配ごとがあって」大佐は単刀直入に切りだした。「あの子は以前、パリで妙な仲間たちと知りあって、はめをはずした暮らしをしていた。だがもとはいい子だから、心を入れ替えて、オーストラリア人の男と結婚し、それでよかったとわれわれも思っていた。娘は幸せそうだった。だが去年、里帰りしてきたあの子はびっくりするほど顔色が悪く、痩せていた。最近の若いレディはみなそんな感じに痩せるのが流行(はや)っとるのだろう?だが骨と皮では、抱きごこちが……いやその」大佐は妻から四十ボルトの視線を受けて口ごもり、話が途切れた。「ええと、まあ、娘は三週間の滞在ですっかり元気になり、しばらくパリに行かせたあと、メルボルンに帰したときは子犬のように溌溂(はつらつ)としていた。だが、向こうに到着するとすぐにまた具合が悪くなってしまった。じつは気になることがあるのだ、ミス・フィッシャー。娘は療養のためにどこかの保養地に行って、いったんは元気になったらしいのだが、夫のもとに戻ったとたんにまた具合が悪くなって。わたしが思うに……」
「わたくしも夫とおなじ意見です」大佐夫人がもったいぶってうなずいた。「なにかとんでもなくおかしなことが起きている。そこでわたくしたちは、信頼の置ける方に真相をつきとめてもらえたらと思っているのよ」
「お嬢さんは夫に毒を盛られているということですか?」
大佐はためらったが、大佐夫人は動揺を見せずに尋ねた。「あなたはどうお思いになる?」
たしかに症状が現れたり消えたりするのは奇妙だとフライニーも思ったし、とくにすることもなくぶらぶらしている自分にはちょうどいい機会かもしれない。このまま父親の屋敷に住み、花を活(い)けているなんてぞっとする。試しに慈善活動に参加してみたが、配給のシチューにも売春婦にもロンドンの飢えにもうんざりしただけだったし、“善意の淑女”たちとのつきあいは精神衛生によくなかった。だから最近は、生まれ育った故郷のオーストラリアに戻ることをしょっちゅう考えていた。まあ、あのころは貧しい暮らしだったけれど。そうすれば、将来についての決断を半年ほど先送りにする完璧な口実になる。
「わかりました。行きます。でも出費はわたしもちで、こちらからの報告はわたしの都合のいいときにします。何度も電報を送ってこられたらうまくいきません。自分でいちからリディアと知り合いになるので、彼女への手紙にわたしの名前は出さないでください。あちらではウィンザーに滞在します」
フライニーはわくわくしてきた。最後に〈ウィンザー・ホテル〉を見たのは、寒い夜明けにヴィクトリア・マーケットのごみ箱から拾いだした野菜をかかえて、ホテルの前を通ったときのことだった。
「なにかあったらホテルに連絡を。といっても、大事な用件があるときだけにしてくださいね。あと、リディアのいまの名字と住所を教えてください。それと――もし彼女が亡くなったら、夫がなにを相続することになっているのかも」
大佐夫人はメモを渡した。「夫の名字はアンドリューズといって、これが娘夫婦の住所です。もし子供がないまま娘が死ぬと、彼は五万ポンドを相続します」
「お子さんはいらっしゃらないのですね」
「ええ、まだです」大佐は言った。そして手紙の束を取りだした。「これを読んでもらえれば」手紙の束をティーテーブルの上に置いた。「リディアからの手紙です。金銭的なことに抜け目がない、頭のいい子なんだよ。だがアンドリューズにすっかり惚(ほ)れこんでいる」大佐は鼻を鳴らした。
フライニーは最初の封筒を取って、中身を読みはじめた。
手紙はとても興味深い内容だった。文学的な価値があるというわけではなかったが、リディアはさまざまな面をもつ女性のようだ。石油株について会計士も顔負けの鋭い論評をしたあとに、夫についてはフライニーがとても読んでいられないような甘ったるい言葉で語っている。
“うちのオス猫ちゃんは、ゆうべの晩餐会でねずみちゃんがよそのハンサムな猫とダンスしたのにすごく怒っちゃって”
フライニーは読んでいて頭がくらくらしてきた。
“かわいい子猫ちゃんに戻るまで、二時間もなでなでしてあげなくちゃいけなかったの”
フライニーはなんとか読みつづけた。そのあいだ大佐夫人は、お茶のお代わりを注(つ)ぎつづけた。一時間後、フライニーのお腹はお茶でたぷたぷに、頭はリディアののろける甘い言葉でいっぱいになった。
里帰りからメルボルンに戻ったリディアの手紙は愚痴っぽくなった。“ジョニーはクラブに行ってしまって、ねずみちゃんはさみしくねずみハウスに置いてけぼり……わたしはずっと具合が悪いのに、ジョニーは食べすぎだと言って、晩餐会に出かけていった……そういえば、〈ペルヴィアン・ゴールド〉が採掘を再開するという噂(うわさ)ね。でも投資してはだめ。あそこの会計士は二台めの車を買ってもらっている……シャロウズの地所についてはわたしの助言どおりにしてね。あの土地は教会に隣接していて通行権もあるから見逃せない。二十年もしたら二倍に値上がりするはずよ……わたしのお金の一部をロイズ銀行に移したわ。〇・五パーセント金利が高いから……マダム・ブレダのスパとマッサージを試しているの。ラッセル通りにあるのよ。とても具合が悪いのに、ジョニーはそんなわたしを笑って見ている”
この手紙にはどこか不自然なところがある。
フライニーはラッセル通りのマダム・ブレダの店の住所を控えて、いとまを告げた。さらにお茶のお代わりを勧められないうちに。


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