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純粋経験と君が代

議論の"起こり"になれば、と思い始めたこのnoteも、しばらくサボってしまった

最後の投稿からここに至るまでの2ヶ月間、シドニーで家を失い、映画に出演し、友人がシドニーを来訪してくれ、卒業しない卒業式に参加するために一時帰国をしていたので、致し方がなかったと言い訳をしておきたい

note作成を再び始めようと思った理由は、YouTubeでライブをしていた心理学者に「将来や過去にどうしても意識が向いてしまうとき、現在に再度集中するための良い方法はありますか?」と何気なく質問を飛ばしてみたところ、「1日1日をしっかり生きていくようになるので、日記を書くということが非常にいいと思います」との回答をいただいたので、できる限り毎日作成していきたい

典型的な三日坊主なので、毎日は更新できないだろうが…


野球という純粋経験

久しぶりの野球

上述の通り、ここ数週間忙しかったこともあり、野球の活動に全く参加していなかった

先日、あまりにも練習に来ない自分に対し、チームメイトから催促の電話がかかってきたので、久しぶりに野球の練習に参加した

正直、野球が好きだとは言いたくない
野球のせいで苦しい思いを嫌というほどしてきた

でも、野球をしている間は、何も考えなくていい
唯一心の底からアホになれる瞬間である

この何かに没入しているという感覚を、西田幾多郎は純粋経験として表現している

純粋経験とは


純粋経験とは、主観と客観が分化する以前の意識の統一状態のことだ。こんな感じである。波打ち際に立って水平線に沈む太陽をうっとりと眺める。この瞬間、こちらに見る主観が、あちらに海や太陽といった客体があるという意識はない。裸の自然の情景が喜びの感情を帯びてたち現れるだけだ。

好書好日 https://book.asahi.com/article/11581536

哲学を少しかじっている程度の自分なりの解釈は、「何かに没入しきっている状態のこと」である

何かに没入することは、その瞬間に完全に集中することにより、ストレスや不安を軽減する

また、没入することは創造力を高め、新しいアイデアと深い洞察を提供する

現代は、非常に「やかましい」時代である
常に、新しい情報が飛び交い、何かしらの通知がスマホには届く
そのような時代で、確実に没入できる機会を持つ意義を再度提起したい

君が代

ネットサーフィンをしていたところ、こんな動画が表示された

この配信者の意図に沿って編集されているので一概には言えないが、多くの人が「君が代」の意味について全く知らないことにショックを受けた

歌詞と現代語訳

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巖となりて
苔のむすまで

現代語訳するといささかこんな感じ

男性と女性が共に支えているこの世は
千年も幾千年もの間
小さな砂がさざれ石のように
やがて大きな盤石となって
苔が生じるほど長い間栄えていきますように

https://izumo-enmusubi.com/entry/kimigayo/#google_vignette

自国を知るということは自分のアイデンティティを知ること

君が代に関してはさまざまな議論があるため、誤解されるようなことは避けたいが、私個人的には素敵な詩だと感じる

戦後、「これは天皇讃歌の曲だ。」「軍国主義や全体主義の復活につながる恐れがある。」などという批判が沸き起こって一種のタブーのようになっているところもあるが、これは905年に奏上された古今和歌集の歌がベースとなっている

何も戦時中の一時的な高まりで制作された曲ではないのだ

まだ、10カ国を旅したばかりの小生ではあるが、ここまで現地の国旗を見ない国や国家を歌わない国は日本を除いてほとんどない

愛国心を持てなどと言っているのではない

自分の生まれた国の歴史や背景を正しく学ぶことは、自己のアイデンティティにおいて非常に意義のあることだと私は考える

そして君が代の歌詞の内容は決して、愛国心を謳うものや神への讃歌、戦いの鼓舞をしているわけでなく、長い間平和が続きますようにと願いを込めているだけである

ここまでシンプルかつニュートラルに平和を詩的に願っている歌が自国の国歌となっていることを私はとてもポジティブに受け取っている




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