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麻痺という劇薬を知る

読書感想文 『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬

身をかがめる。興奮を抑えるかのような、深く静かな呼吸。目標から目をそらさず、周囲の音が聞こえないほどの集中。狙いが定まったら、音を立てずに予備動作をして、一気呵成に飛びかかる。
おもちゃや紛れ込んでしまった虫を捉える際の、我が家の猫の動きである。誰に教えられたわけでもなく、彼らはこういう動きをする。本能なのかもしれない。

第二次世界大戦、ドイツ軍に村を蹂躙され生き残った少女セラフィマは、助けに来たソ連軍の元女性狙撃手イリーナによって狙撃手として導かれる。両親を殺したドイツ軍、そして自らを狙撃手へと変えてしまったイリーナへの復讐を誓い、セラフィまは狙撃手として成長し、戦争を生き抜く。

あらすじだけを見ると、無骨な戦争物語である。実際、無骨ではある。一方で、セラフィマやイリーナを始めとする登場人物たちのキャラクターが立って、物語としてすらすら読める。ただの成長譚ではなく、セラフィマの心の変化をつぶさに描き、英雄ではなく、ただの狙撃手でもなく、戦争に身を投じる女性として、引き金を引く原点を浮かび上がらせる。

読んでいて恐ろしいのは、セラフィマの経験と心を通じて、当初はなにかを殺すこと。例えば鹿を殺すシーンですら目を背けたくなっていた私が、除々に人を殺すシーンに恐れを感じなくなっていったこと。殺したことを悪夢に見るような人間でいたかった、と嘆くセラフィマを文章を読むことを通じて追体験する。人を殺すのに必要なのは感情の麻痺であり、それは倫理を失わせる劇薬である。セラフィマが最後にある人物を射殺した時に感じる、一種の清々しさに悲しくなる。そうか、敵は、そうであったのか。

勝利を飾って終わりでも、英雄となって終わりでもなく、戦後が描かれるのは同じく狙撃手を主人公とした映画「アメリカン・スナイパー」を彷彿とさせる。国も時代も性別も違えど、「同志少女よ、敵を撃て」と「アメリカン・スナイパー」には似た雰囲気がある。つまり、消せない過去とどう向き合おうとするのか、ということ。特に女性であることで生まれる忌避や疎ましげな目と、どう付き合っていくのか。どう希望を見出すのか。狙撃手だったその後の物語が、私を現実に戻してくれた。

今まさに作品の舞台となったロシアとウクライナで戦争が起きている。新たなセラフィマが生まれている。どうか、早く終わりますように。どうか、戦争にいる人々が生きて人生を歩めますように。どうか、少女たちが心健やかな戦後を送ることができますように。

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