「ジョジョ・ラビット」感想(ネタバレあり)

今回はつい半日前アカデミー賞の脚色賞を受賞した「ジョジョ・ラビット」。
個人的にここは「アイリッシュマン」と予想していたから、意外な受賞だった。
とはいえ、今作がその名に恥じない作品であることは間違いないところ。

そして、評価云々を抜きにして、この映画が好きだ。
ただただ、登場人物がみんな愛おしく彼らの幸せを願ってやまない、そんな映画。
もう、本当に好きなので偏愛込みでよろしければ、どうぞ。

子供から少年になるということ

ストーリーの背骨は所謂、成長譚ということになるのだろうが、その切り出し方に注目してみた。
よくあるパターンは「少年が大人になる」的な組み立てであるのに対して、この物語では「子供」から「少年」あるいは「思春期」へと成長していく過程を切り出してスポットライトを当てたのが特徴的。

「少年が大人になる」というのは往々にして、明確な通過儀礼というものが存在して、少年と大人の間には明確な線が存在するように思う。
(儀式的なもので言えば、元服であったり伝統行事としてのバンジージャンプがそうだろう。もっと卑近な所で言えば、アルコールやSEXなんかもそのように扱われたりするだろう。)

一方で本作での主人公の成長はもう少しグラデーションがあって、加えて言えばひどく非自覚的だ。
幾つかの観点で掘り下げてみる。

イマジナリーフレンドのアドルフ

最も象徴的なのがこれ。
当然、ヒトラーをモチーフとしたイマジナリーフレンドなのだが、これがまさに主人公ジョジョの子供としての象徴だと言っていい。
イマジナリーフレンドとは心理学、精神医学的にも子供に見られる現象だから当然なのだが、同時にその中身もまた「無邪気な(その点で子供らしい)正義」が投影されているからだ。

面白いのはいずれ決別すべき子供としての象徴ではあっても、一面的に過ちだと描いていないところである。
最終的にはアドルフの冒頭の助言に従って、ジョジョはラビットになるのだから。

結局、ジョジョはアドルフを拒否するに至るのだが、それは一夜にしての別れではないように思う。
作中を追いかけていると時間が進むにつれて、(厳密に計った訳ではないので多分に感覚的ではあるが)アドルフは出現することが減少していく気がした。
それ自体がジョジョの変化を示しているように見受けられた。
これが前述したグラデーションのある成長ということを端的に示していると認識している。

吊るされた母と傍らに佇む息子

身近な人の死というのは、フィクションにおいては登場人物を変えたり、ストーリーを加速させる一種の仕掛けとして機能するものだと思う。

スカーレット・ヨハンソン演じる母ロージーの死は幼い息子にとっては大変な試練で、ジョジョにも変化が訪れる。
だが、私の捉え方としては、それでも変わったのは性質でなく行動である、と思っている。
これ以降、ジョジョは軍服を脱ぎ、ゴミ箱を漁り、ただ日々を生きることに必死になる。
しかし、そうでなくては生きていけないから、形振り構っていられなくなったから、それだけのこと。
だからストーリーでジョジョは心情としては母の死を乗り越えるに至っていないと、思っている。
裏を返すと乗り越えたときには本当に大人になったと言うことができるのではないだろうか。

エルサへの初恋

当然、彼女との関係性というのは今見てる観点からは外すことのできない要素。
その目線で見ると非常に彼女が大人びている事に納得感がある。
恐らく、作中での年齢は18歳前後をイメージしているのではないかと想定したのだが、それ以上に大人っぽい雰囲気がある。
無論、彼女の境遇が子供のままでいることを許さないというのはあるだろう。
だが、それ以上にジョジョというフィルターをを通して描いているからなのだと思う。

そう。小難しく書いているが、若い頃って少しの歳の差なのにお姉さんに見えるというあれ。

そして、彼女とのシーンでは「ドイツが勝った」という嘘を告げる所にフォーカスを。
この嘘は連合国が勝ったことを知れば、エルサがいなくなってしまうかもしれないという、身勝手で自己中心的なジョジョの嘘。
ここで決定的に、大人への成長でなく、思春期への変化を描いているのだと感じた。
成熟ではなく、揺れ動く時期の自意識と相手への気遣いとの葛藤があり、最終的に自我が勝ってしまう、まさに若者らしい不安定さだと思うからだ。
だから、割とさり気なく挟まれるけれど、大事なシーン、大事なセリフだった。

大切なものは何?

さて、少し目先を変えてみる。
ここまでアドルフ「正義」(ここではその中身が正しいか否かは問わない)とエルサとの「恋」に触れてきたが、ストーリーとしてはこの対立構造が一つの軸をなしている。
そして最終的にはジョジョは「恋」を選んだわけである。

これをもう少し拡大してみると「社会的な大義」と「個人的な感情」という分類になるだろうか。
自身も含めて多くの人が社会的な大義は気まぐれのように揺れる感情よりも偉いもの、正しいもの、高尚なものとして受け止めている気がする。
勿論、感情を否定しているとまではいかないだろう、ただポリティカルコレクトでない感情は悪だと切り捨てていないだろうか。

無論、社会的なことも大事なことだ、それを否定するものではない。
だが、一時の衝動、感情、気持ちを選ぶことも間違いではないのだと思う。
ジョジョと同じで、結局その人にとって大切なものは自分が決めるものなのだから。

最後に

大分長々と書き綴ってきたけれど、まだまだ語り足りないぞ!というのが正直ある。
スカーレット・ヨハンソンの母親像、サム・ロックウェルの演じた大尉の生き様、あるいは、どこか無機質であるのに人間味のあるゲシュタポの面々。
これについてはいずれ機会を改めて。

ただ、腑に落ちないことを最後に一つだけ。
キャストの確認をするときにWikipediaを読んでいたら作品の評価として以下のような記載があった。

評価
本作は批評家から好意的な評価を受けている。Rotten Tomatoesでは78個の批評家レビューのうち78%が支持評価を下し、平均評価は10点中7.51点となった。サイトの批評家の見解は「『ジョジョ・ラビット』の不謹慎なユーモアと真面目なアイデアの融合は、間違いなくどんな人からも好かれるようなものではない。だが、この反ヘイト風刺劇は、度が過ぎていると言ってよいほど大胆である」となっている[15]。MetacriticのMetascoreは22個の批評家レビューに基づき、加重平均値は100点中53点となった。サイトは本作の評価を「賛否両論または平均的」と示している。

どうにも理解に苦しむ。
作品の評価は自由だ、私はこの作品がお気に入りだが、そうでない人がいてもいい。
それでも、だ。
果たして、そもそも不謹慎なユーモアなのか?度が過ぎているのか?
何と言うか、戦時下の人々を描くのに笑いがあるのはけしからんとでも言うようなニュアンスのように意識させられ、違和感が拭えない。

自分は日本人であり、ナチスへの本質的な感情をドイツをはじめとした欧米人とは同じくしていない、それは理解している。
それでもなお、「ナチスを描くなら、大戦下を描くなら、こうあるべき」という政治的正しさが前提にあっての評価のように思えて首をかしげてしまうのだ。

「そうじゃない、映画表現とはもっと自由なものじゃないか?」、と世間様の評価に疑義を呈しておく。


改めて述べるが、この作品はただ愛おしく、暖かい。
その感傷に政治的なものを挟んでほしくない、それだけでしかないのだ。

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