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【育児日記♯3】たまに食べるカップ麺は美味しい

先日、一泊の近距離旅行へ車で出かけた。

ランチは道中に寿司でもと思っていたが、予定が押してパーキングで取ることに。

しかしながら、入ったパーキングのレストランや売店がまさかの改装中。大人のランチは保留して、まずは息子様にパンを食べさせることに。

やや風は冷たいが、天気は快晴。外のベンチでも気持ちの良い陽気だ。そういえば、改装中の店の前にローソンの移動販売車が来ていて、カップ麺を売っていた。

久々のカップ麺、いいかも。

たまに食べるカップ麺は美味しい

そんな訳で、今日は過去を振り返りつつカップ麺の話をダラダラと書き連ねていく。
短い話の予定が、想定外にまた長くなってしまった。結論は、たまに食べるカップ麺は美味しいという、ただそれだけの話。

カップ麺嫌いの私、カップ麺好きの夫

ラーメンは好きだがカップ麺は苦手。全く食べない訳ではないが、あまり食べたいものではないので避けがちだ。

原因は幼少期にある。小学生の頃、我が家の大黒柱は看護師の母だった。父は学び直しで遠方の大学院に通っており、長期不在。(しかも無収入)

看護師なので夜勤や準夜勤なんてザラ。
学校から帰ると、机の上には4〜5個のカップ麺。夜ご飯に食べて、ということだ。

私と弟と妹で一つずつ。一つは母。もうひとつはお腹が空いている誰かが食べる。

「お母さ〜ん」と泣く妹を宥めながらカップ麺を作って食べさせ、寝かしつける。そんな幼少期だった。

母が悪いとは思っていない。30代後半で夫不在。3人の子どもを抱え、家事も育児も1人で担う大黒柱。慣れない土地で頼れる人もおらず、家のローンもある。

母は家族を守るために必死だったのだ。この頃の母は、常に栄養ドリンクを飲んでいた記憶がある。

だがしかし、当時の私はまだ子ども。口には出さないが、カップ麺やお惣菜ではなくやはり母の手作りのご飯が食べたい。家に帰って机の上のカップ麺を見る度に、「またこれか」と思ったものだ。

そんな私とは反対に、夫はカップ麺が好きだ。
聞けば、幼少期にそういったものをほとんど食べる機会がなく、カップ麺やジャンクフードを食べたくて仕方がなかったらしい。
土曜日のお昼は決まって袋麺。それが唯一のジャンクフードで、とても楽しみだったそうだ。

それを聞いた私は「なんとも贅沢な」と思った。しかも袋麺ときた。私の中で袋麺とカップ麺は同義ではない。袋麺といえど、もやしくらいはのっていたに違いない。

自分が親になった今、母の苦労は痛いほどわかる。きっと当時の母には、自分の時間なんてほとんどなかったことだろう。

そんな母には感謝しているし、カップ麺にも罪はない。

けれど、私はカップ麺やお惣菜が苦手になった。できるならあまり食べたくない。きっと幼少期に一生分食べたのだ。

料理の手は抜きたい、だけど買ったものも食べたくないジレンマ

普段の生活の中で、料理の手を抜きたい時が多々ある。育児が始まってから、それがより顕著になった。

疲れているから料理をしたくない。だが、疲れているからこそカップ麺や出来合いのものは食べたくない。という葛藤に苛まれる。

疲れていて弱っているから、手作りの優しい味のご飯を食べたいが、作る気力がないのだ。

さらにはカップ麺好きの夫からすれば、「カップ麺でいいじゃん。なんで素直にカップ麺食べようってならないの?」となる。

こんな時、気持ちに上手く折り合いをつけられればいいのだが、なかなか上手くいかなかったりする。

そして大抵の場合、イライラしながら料理をする羽目になる。私の場合、カップ麺を食べたくない気持ちの方が勝ってしまうのだ。

たまに食べるカップ麺は美味しい

そんな私であるが、サービスエリアで食べたカップ麺は美味しかった。
気持ちの良い陽気が後押ししてくれたのかもしれないし、売店すら閉まっている状態では他の選択肢もほぼ無かった。

ここでカップ麺をスキップして、高速を降りてから店を探していたらまたイライラしていたかもしれない。

もちろん、美味しいお寿司に出会えた可能だって大いにある。せっかくの旅行なのにカップ麺、という気持ちもある。だが、子連れの外食はなかなか大変だ。
行きのランチでイライラしてしまっては、その後の旅路に影響を与えかねない。

たまにはこんな日があってもいい。
そう思えたカップ麺に感謝。

余談だが、登山して山頂で食べるカップ麺はめちゃくちゃ美味しかったりする。
同じものでも環境と気の持ちようで、味は変化するものだ。

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