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青い空を切り取りたい!

今日の天気はとてもいい。冬は寒いから嫌いだけど、晴れの日が多いのは嬉しい。空は高く、青い。あまりにも綺麗な青だから、そのまま切り取って部屋の壁紙にしたくなる。「切り取る」で思い出したけど、雑誌や広告の切り取りをしたことある人ってどれくらいいるんだろう。気に入った写真を見つけたら、ハサミを取り出して、それを切り抜く。なくさないように、ファイルや本の隙間にしまっておく。だから小学生の時は広告をよく集めていた。けど、数カ月もすればどこにしまったかなんて忘れてしまう。

話は変わってしまうんだけど、noteを是非最後まで読んでほしいなぁって思ったりします。伝えたいことって、なんか変に居心地が悪くなって、結局最後になっちゃうからです。
誰に何を伝えたいの?って言われてもわからないし、なら最後だけ読めばいいじゃん?って話になっちゃうかもしれないけどね。

先日家の近くのインドカレー屋で、チキンビリヤニというメニューを見かけた。チキンビリヤニは、インドを代表する料理の一つだと思う。日本料理でいうなら、知名度はカツ、雰囲気は炊き込みご飯だ。そんなことはどうでもいい。僕はふと、インドのガヤで食べた、チキンビリヤニを思い出した。するとその記憶につられて、その前後の記憶が、まるでサツマイモを掘り起こした時のように(掘ったことがある人がどれくらいいるかわからないが)、頭の中に鮮明によみがえった。

ガヤで食べたビリヤニ

ガヤという都市を僕は知らなかった。コルカタからバラナシまでの鉄道が半日かかるというのを聞いて、途中下車することに決めた。その都市がたまたまガヤであったというだけだった。

その日の朝食はカレーだった。ゲストハウスオーナーが朝食を用意してくれるのだが、結局滞在した四日間すべてカレーだった。オーナーが僕を部屋に招き朝食はほしいかと聞き、僕はイエス、プリーズとだけこたえる。部屋は赤色の装飾で統一されていて、なんとなく埃っぽい。よくセレクトショップに売っている、誰が買うのだろうかというような模様をした布がそこら中に吊るしてあり、部屋の端のほうでネズミが走っているのを何度か見かけた。ほどなくして女性(おそらくオーナーの奥さん)が、銀のプレートに乗った朝食を持ってきて、「座っていいわよ」と言う。その時初めて自分が立っていることに気が付いた。どうも居心地が悪くて立っていたらしい。気を使ってくれたのかプレートにはスプーンが乗っていて(噂通り、インド人は食べるときに右手を使う)、味もおいしかったが、量がとても多かった。インド人は割と太っている人が多いという印象を受けたのだが、おそらく食べすぎにのせいじゃないかな。(あと、チャイの飲み過ぎ。)食後のドリンクもいただいたが、これがなかなかにおいしくない。なんでもミルクパウダーをお湯で溶かしたという飲み物だったらしい。

午前中はゲストハウスの屋上でヒンディー語のフレーズを学んだり、昼寝をしたりした。オーナーは何匹か犬を飼っていて、彼らのおしっこやうんちがそこら中にばらまかれていた。僕がインドに行ったのは十二月で、その時は気温はあまり高くない上に乾季だったため、比較的過ごしやすい季節だ。それにもし雨が降ったら、目の前にあるおしっこや、道のどこにでもある牛のうんちがどうなってしまうのかと、考えるだけで寒気がする。

ゲストハウスの屋上から見た景色

太陽の高度が高くなったところで散歩に行く。町自体はそんなに広くないから、気が付いたら知っているところにたどり着いたりする。けどこういうときに限って、探している場所が見つからないのはなんでだろう。昨日食べたビリヤニをもう一度食べたくて散歩に出たのに、気づいたら川辺に出ていた。インドの川は本当に汚い。だけど、高い建物が一つもないだたっぴろい荒野を、日光を綺麗に反射するほど流れのない水面で、そしてその水面がまるで湖のように広がっている。日本でこれほど悠々と流れる川を見たことがない。美空ひばりはどこで川の流れが緩やかだと思ったのだろうか。

ガヤを流れる雄大な川

目の前では死体が焼かれていた。その横では髪の毛を剃っている若い男性がいた。それをたくさんの人々が取り囲んでいて、その奥でうしがうんちをしていた。僕が腰を下ろして休んでいると、葬式に参加していた若者が僕に近づいてきて、僕の隣に座った。どれくらい経ったかわからないが、若者がおもむろにしゃべり始めた。少なくとも日本語でも英語でもなかったから、何を言っているのか全く分からなかった。僕は不意に孤独を感じた。

川をあとにして当てもなく歩くと、ビリヤニのお店を見つけた。店の前には人一人が入れそうなほど大きい釜があり、それを数人の客が囲んでいる。これが食べたくて散歩に出たことを思い出し、軽い足取りで店に向かい、注文をする。50ルピーのビリヤニは、おなか一杯になるのには十分な量だ。おそらく、その時は街に一人の東洋人だったのだろうか、外には軽い人だかりができていた。(その後なぜがtiktokに映ってくれと言われた。) 視線を感じながらも、右手の四本の指を互いにくっつけて、スプーンのように少し曲げたら、それを熱々のご飯の中に突っ込む。ご飯とチキンの破片が4本の指の腹に乗った状態で口の前に運び、親指の背ではじくようにして口の中に入れる。あとはこれを繰り返すだけ。油でギトギトの右手をズボンではたくように拭いながら、「ダンニャワード」と言って店を去った。店主は笑顔だった。

本場のチキンビリヤニ

記憶のスナップ

近所のインドカレー屋で、僕はインドで切り取った記憶を思いもよらず呼び起こした。部屋の片付けをしている時にふと、いつか切り取った雑誌の広告の写真を見つけたような感覚だった。こんな切り取りをもっと集めることができたらいいよなって思ったりする。

そうして僕は、コロンビアまでの片道の航空券を買った。

自分は、広告を集めていたあの時と、何ら変わらないのかもしれない。

おわりに

こーゆーシーンって、何も旅行中に限った話ではないよね。美味しいご飯を食べている時に、ふと顔をあげたら目に入った光景とか。昼下がりの駅で、探していないようなふりをして恋人を待っている時の、何となーく引き伸ばされたような、あの空間と時間の感じとか。
でもそーゆーのって、記憶の中にしか残らないから、いいのかもしれないよね。でも牛のうんち、ワインが服に着いてしまった時ぐらい頑固に、僕の頭の中から離れないのは困ったものだ。

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