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誰かと比較することで得られる安心感は、ドラッグのようなものだ

広いこの世界を見渡せば、自分よりも悪い状態である(ように見える)人や、悪い状況にある(ように見える)人は、探そうと思えばいくらでもいるだろう。

本当にそれが悪いのかどうかは、実は外から見るだけではわからないのだけど、少なくとも、自分の目から見たら、そう見える人たちがいる。


あんな人でも生きていけているんだから、私も大丈夫だ。
あんな(自分基準で見た)最悪な人生を生きている人よりは、私はまだマシだ。

心の中で誰かをおとしめることで、自分のことを慰め、励ます。


こんなふうに、他人の生き方と自分の生き方を比較したことがある人は、私だけではないと思う。

もっとも私の場合は、自分よりも優れている(ように私からは見える)人を見て、私はなんてダメなんだ、私はなにもできない、と、自分をおとしめる方に比較することのほうが断然多いのだけど。

とはいえ、自分と他人を比較していることに変わりはない。


とあるコミュニティで、まだ若くはあるけれど、生活力が低いと思われ、色んな人を頼りながら、助けられながら生活している人に出会った。

彼を見て、こんな彼でもなんとか生きているんだから、自分も大丈夫だ、なんとかなるって思えるよね、彼がいることは人生の安心材料になるよね、という話がコミュニティ内で何度もされた。

だけど私から見たら、彼は彼なりに考えながらちゃんと行動しているように見えたし、前に進んでいるように見えたし、周りを見て手伝いもちゃんとしていたし、そして何よりも、周りの人から愛されているように見えた。

私から見たら、彼は私なんかよりも、たくさんいいところがあるないように見えた。

そんな彼を見て、
「彼でも生きていけるから大丈夫」
と安心感を得ている人たちがいる、ということに、私は逆に焦りを感じてしまった。

周りにいる多くの人にとっては、彼は相当生活力が低く見えているらしい。

そんな中で私は、彼の生活力が低いとそんなに思わなかったし、むしろ私よりもよっぽど色々とやっていると感じた。

だから、私は彼を見て安心するどころか、彼がそんなふう(生活力が低いよう)に周りから見えている、ということは、私自身はもっとずっと、生きるのに向いていない、やばいやつなんじゃないか。
そう思って、焦りを感じたのだ。

でも、こうして誰か他人と自分を比べることで得られる安心感は、一時的なものでしかないんだろうな、と思う。

比較で得られる安心感は、定期的に、継続的に比較することでしか、得られない。
そう、まるでドラッグのように。


自分はこのままで大丈夫だ、自分は自分のままで生きていける、自分の人生これでいい、いや、これがいい。
そうやって心から思える安息の地は、他人と比較した先にはない。

自分の人生を安心して生きるための安息の地は、自分の心の中にしかないんだと思う。

だから私は、自分のための安息の地を、自分の心の中に持てるようになりたい。
誰からも侵害されない、私だけの安息地。

誰とも比較しないで、
「私の人生これでいいんだ」
と心から思えるようになったら、最高じゃないか。
などと思いながら、今日も私は、私の人生を生きている。


はる
2024.2.13


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