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光(九)

 中学の終わりから高校生になるまでは瞬く間に過ぎた。濃密な時間過ぎて、かえってぽっかりと空白ができてしまったかのようだった。
 イベントの話を同じクラスの小関さんと奈良さんに伝えると、二人とも興味を示したみたいだった。あの様子だと参加しそうだ。

 彼女たちの活動になんて関心はなかった。所詮お遊びだろうから、見ていられなかった。ほんとうのアイドルの世界はそんなに甘いものではない。かつてあった情熱はすっかり熱を奪われていた。挫折を味わい、これからどうすればいいのか分からない。だけど、何もしなくていいやと考えてしまう。
 朝、教室に向かう途中で視線を感じた。見つめ返すと、そこに佇んでいたのはアイドル部の人だった。三年生で、ライブのときだけ黒縁の眼鏡を外している人。今は眼鏡の奥の瞳を見開いている。
「わたしの顔に何かついてますか?」
 尋ねると、ますます驚愕したように瞳孔を開く。真ん丸な黒目で、綺麗なそれだと感じた。
「思い出した――」
 新垣彩葉ちゃん、札幌の、と続けて呟いた。確かめるように、ゆっくりと。
 どうやらわたしが何をしていたのか知っているらしい。まるで表舞台に出なかったわたしを知っているなんて、そうとうなアイドルオタクだろう。
 何も言わずにいると、それを肯定と受け取ったようだ。
「それじゃあ、誘っても、わたしたちとは活動しないよね」
 諦めたような口調になる。わたしの思いは何一つ伝えていないというのに。
「あなたからしたら、わたしたちは遊んでるように見えるよね。ひょっとしたら、許せないかもしれないよね」
 でも、と紡ぐ。
「でも、もしよかったら、一緒にスクールアイドルをやりませんか? あなたが入ってくれたら、心から嬉しい」
 声は小さかったけど、確かな意思がこもっている。安易に答えられそうになかった。
 ありがとうございます。少し考えさせてください。
 自分でも戸惑うくらい、しおらしい返答をしていた。

 放課後になって、時間をかけて帰る支度をする。部活に入っていない私は、みんなが部活に散ってからいつも帰る。はしゃいでいる風なのが煩わしいのだ。
 中学のときも友達が多いわけではなかったけれど、高校では自ら交わりを絶っている。必要最低限の話しかしない。おかげで友達はいないが、不思議と寂しさは覚えない。

 考えさせてください、なんて。わたしはいったいどうするつもり? まさか、スクールアイドルを始めるの。信じられない。アイドルはもう――もう、こりごりだ。
 教室に誰もいなくなった。さっき、こちらの様子を窺っている奈良さんと小関さんの視線を感じたけど、気づかない振りをしておいた。荷物を持って、教室を後にする。
 校庭に出て空を見上げる。わたしが夢を見ているときも、情熱を失ったときも、空の大きさは変わらない。あの青は変わらない。――できることなら、透明なあの頃に戻りたい。
 好きな歌を口ずさんでみる。乃木坂46の『失いたくないから』。

  水道の蛇口 顔を近づけ

  冷たい水 喉に流し込む

  斜めに見える あの青空が

  どんなときも僕の味方だった

「蝉の鳴き声に、ぐるりと囲まれた」
 続きを引き取られて、慌てて歌声のした方を振り向く。すぐ傍に、美崎さんが立っていた。関心ないとか言っておきながら、わたしは彼女たちの名前をよく把握している。
「彩葉ちゃん」
 何もかも見透かしている笑顔だった。
 もう、こりごりだというのに。どうして入った学校に彼女たちがいたのだろう。どうしてわたしを誘うのだろう。ほんとうに、どうして。
 てっきり、家と学校の往復に嫌気がさして、なんとなく飛びついたと思っていた。だけど、そうじゃなかった。わたしは好きだったのだ。歌って、踊って、誰かを笑顔にさせることが。そんな存在になれることに憧れていたのだ。強く。
 もしかしたら、透明なあの頃に戻れるかもしれない。一縷の可能性を掴むように、差し伸べられた手をそっと掴んだ。


   六 君と出会って僕は変わった

 好きなものは、と訊かれたら、心揺さぶられるもの、と答える。
 マグリットの絵でも、名久井直子さんの装丁でも、アイドルの衣装でも。絵はわたしを不安にさせるものがいいかもしれない。装丁は独創性が心を打つかもしれない。衣装はとにかくかわいいのが一番。いいな、と感じられる瞬間が何よりの至福。
 昔から絵を描くことや裁縫が好きだった。イメージを膨らませて何かを作り出すこと。変なしがらみに囚われず、思いつくままに表現するのが大事。わたしにしかできない、なんて特別な捉え方はしない。好きだからやっているだけ。
 母親の影響だと言われればそれまで。長い時間一緒にいて、それが家族というものなのだから、少なくない影響はある。それに、わたしはお母さんの作るものが好きだ。ただ華やかなだけではなく、さまざまな感情を抱かせるような。そのくせ、見せられたときには素敵、としか呟けない。一種の魔力を有している。
 中学までは一人で黙々と絵を描いて、独創的だね、と美術部の部員に言ってもらえた。自分で服やスカートを作って学校に着ていき、それかわいい、どこで売ってるの、と訊かれ、自分で縫ったのと返すと、すごいと褒めてもらえた。それはわたしの創作の一部分に過ぎなかったけれど、そんな風に評価されることは嬉しかった。
 誰より、千歳はいつもわたしが作るものをかわいい、素敵、と必ず言ってくれる。曇りのない笑顔で。わたしは彼女の笑顔に惹かれていた。いつからか、千歳がいいと言ってくれるのを期待して作るようになっていた気がする。
 だけど、高校生になってから、それは内側に留まらなくなった。アイドル部に入り、衣装担当になって、人前に晒されることを前提に作ることを覚えた。みんなに似合うもの、踊っているときに映えるもの、いろいろと考えるきっかけを与えられた。時間が限られていて、苦しいと感じる瞬間もあるけれども、でも、楽しい。最近は毎日がほんとうに楽しい。
 オリエンテーションで二年生三人のライブを目の当たりにし、心を揺さぶられた。紅亜さんたちがかわいくて、まっすぐな瞳で、気づいたら手をぎゅっと握っていた。隣の席を見たら、千歳も分かりやすいくらい興奮していた。そこでわたしたちの高校生活は方向づけられた。
 次は増田明さんという人が主催のイベントに出演する。曲は決まって、もう練習は始まっている。衣装のイメージも固まっていて、あとは細部を仕上げるだけ。舞台でどんな感じに映るか心弾む。わたしも舞台に立つのだけれど。

 どういう経緯があったのか詳しいことはよく分からないが、先週から彩葉がメンバーに加わった。学校で話題になるくらいの容姿をしているから、アイドル部に入ってくれないかな、という話は度々していた。わたしと千歳も、同じクラスだからそれとなく様子を窺っていた。でも、いつも静かに――というよりも、周りを隔絶している雰囲気があって、とてもスクールアイドルをやってくれそうになかった。
 最初に誘ったのは緋菜さん。実は、その現場には居合わせた。彼女らしからぬ大胆な文句に、驚いたよりも戸惑った。
 そして、入部を決めさせたのは舞子さん。
 何はともあれ、有望な新人が加わったのは確か。練習を一緒にやって衝撃を受けたのが、彩葉はダンスも歌もかなりできること。それに、教室では大人しくしているのに、実際の彼女は明るさと誠実さを併せ持っていた。
 正直、謎は残ったけれど、千歳をはじめ、メンバーが手放しで喜んでいるため、わたしも歓迎している。
「おー! 彩葉ちゃん、ダンスがほんとに上手いね」
 紅亜さんに褒められて、彩葉は照れ笑いを浮かべた。
「そんなことないですよ。まだまだです」
「ダンスの経験があるんですか?」
 美桜さんが尋ねると、
「昔、ちょっとだけ」
 と短く答える。
「歌も上手だし、こんなにすごいんだから、わたしなんかよりセンターに相応しい気がするなー」
 紅亜さんの口ぶりは軽い。前回は緋菜さんをセンターに抜擢したけど、今回はやはりまた紅亜さんに任せることになっていた。
「それは違うと思うよ、紅亜ちゃん」
 さくらさんが首を横に振る。いつものように、語尾を柔らかくして。
「そうよ。たとえ彩葉が優れたメンバーだとしても、すぐにセンターとはならない。真ん中に立つ人間は、みんなに認められて初めてセンターになれるはず。発起人であり、わたしたちの精神的支柱であるあなた以外に相応しい存在はいないわ」
 美波さんが朗々と語った。
「えへへ、なんか照れちゃう」
「もう、しっかりしてください」
「それにしても、」
 舞子さんが何かを言いかける。メンバー一人ひとりを見渡し、「最初は三人で始めたのに、いつの間にか九人にまで増えたね」と考え深げに続けた。
 メンバーが増え、ライブを経験し、学校での知名度が上がっていくと同時に、わたしたちの実力もついてきた。これから、どこまでいけるのかな。まだまだ、いけるはず。
「さ、本番も近いから、練習に励みましょう」
 美波さんの呼びかけで、再びポジションに分かれる。そんな風景を、彩葉は少し離れたところで満足そうに眺めていた。

「美帆、ちょっといい?」
 活動時間が終わり、下校する段になって、彩葉に呼ばれた。「話があるの」
 どんな内容か見当もつかなかったけれど、断る理由はない。いいよ、と承諾した。無言で歩き出す彩葉に続いて、体育館裏まで歩いた。下校する生徒たちの喧騒が遠ざかる。
 体育館と塀に挟まれ視界が暗い。そのため人が来ることは珍しく、告白のスポットにもなっている。女子校だから同性間の逢瀬に限定されるけど。
 まさか、彩葉がわたしに告白する可能性は万に一つもないと思うけど、それでも、どうやらほかの人には聞かれたくない類の話らしい。
「どうしたの? もうすぐ学校閉められちゃうよ」
「うん、すぐ終わるから」
 両手を後ろで組んで、彩葉は足で地面の土をいじっている。「美帆、わたしが加入したこと、あんまり快く思ってないでしょ」
 単刀直入に聞かれ、どう答えるか束の間逡巡する。迷った末、「どうしてそう思うの?」と逆質問をした。
「そう思ったから」
 しかし、はぐらかされてしまう。

「喜んでるよ。みんな、彩葉が入ってくれないかな、って望んでたから」
「みんな、はね」
 どういうつもりなのか、もう一つ量りきれない。
「……確かに、わたしの知らないところでやり取りがあって、入部が決まったから、経緯が分からない、とは考えてた。でも、快く感じていないなんて、そんなことは決してない」
「そっか、そうだよね。突然だったかもしれない」
 でも、と言葉を継ぐ。彩葉は相変わらず足下をいじっている。「でも、今はまだ話す気がない――こともある。本音を言えるとすれば、わたしもアイドルが好きで、アイドルに憧れている。みんなと一緒に最高のパフォーマンスを披露したい」
「わたしもだよ」
 お互いにやっと笑顔を交わせた。
「美帆は、紅亜さんたちのことが大好きだよね。見てると分かる」
 しばし言葉に詰まってから、ゆっくりと頷いた。最初は千歳の気持ちに合わせた部分もあったけれど、今では紅亜さんらといる時間がほんとうに愛おしい。かけがえのないものだ。
「ごめんね、変な話して。よかったら、一緒に帰ろう」
 先に帰ってと伝えたから、千歳はもういないだろう。
「いいよ。いろいろ話そう」
 連れ立って歩き出しながら、いつか、と胸の内で呟く。いつか、今はまだ話す気がないことを、わたしに話してくれるだろうか。

 家の近所でフリーマーケットをやるというから、散歩がてら見に行くことにした。町興しの一環として開催されているのか知らないけど、広い公園全体を貸し切っているくらい大規模だ。休日の昼下がり、さまざまな世代の人たちが訪れている。
 売られているものはまるで統一感がなく、それぞれに蒐集しているものや自作しているものと一見にして分かる。古着、缶バッチ、骨董品、絵や写真など。でも、眺めているだけで楽しいし、特に古着はいいと思えるものもちらほら。見つける度に手に取って、どんな柄なのか確かめる。
 ふらふらと、気の向くままに歩く。惹かれるものがある方へ。

 外に出たのは、少し衣装のことで煮詰まっていたからだった。家で最後の仕上げに取り掛かっていたのだけれど、どうしても、何かが足りない、そんな風に感じてしまう。しかし、何が足りないのか判然としない。気分転換も兼ねて、アイデア探しの放浪を決行した。
 描いたり作ったりするときに納得がいかないときは、場所を変えて、そこでいろんなものに目をやるようにしている。人工物でも、そうではないものでもいい。きっかけを、ヒントを求めて。今までの衣装製作でも、この方法で最終的なイメージを固めた。
 わたしは衣装のすべてを任されている。それが嬉しくもある一方で、下手なものは作れない、というプレッシャーもときに感じている。学校の部活とはいえ、ステージに立つアイドル。とびっきりかわいくしたい。
 好きなことを好きなようにやる上に、精神的な負荷を背負うこと。母親が常日頃抱えている苦悩は、きっとこの程度ではない。
 ふと、たくさんの絵が飾られているお店の前で足を止めた。風景画を専ら描いているようで、色彩豊かだった。その中の一枚に、吸い込まれるような錯覚を覚える。美しい花畑、なんてことはない真っ白な花。
 どうしてこんなに胸を騒がせたのか分からないけど、これが衣装に使えるのではないか、という確信がいつの間にか生まれていた。
 その絵を手にし、お店に人に差し出す。
「これ、ください。いくらですか?」

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