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りゅうぜつらん


ネットのグローバル化もひさしい。ちゃんと言うと、インターネット上でくり広げられる表現に違いがあんまり見受けられないようにおもえる。大同小異もいいところだ。まったくの私見なので悪しからず。

ネットのゼロ年代(2000~09年)が、ここ最近の著述でしきりに論じられているようだ。それもそうか、やっぱり2011年とか12年とか、ゼロ年代が過ぎた直後では懐古も分析もあったものではない。2010年代も終わったころになってようやく、ゼロ年代の比較分析ができる。

そのゼロ年代にくらべ、いまやネットはアングラとは対極の世界になった。ネット上の言説を、市井のひとびとは判断材料とし、ときにそれにおびえ、ときにそれに知恵をもらい等々。そんな社会だ。言説言論にかぎらず。表現のあり方がどうも等質で、だからといってそれらと全く逆のベクトルの表現をしてみたところで埋れてしまう、ジレンマをはらんだプラットフォームになってしまった。

YouTube的表現がおおいに目立つ。敗北を認めたかのようにテレビまでYouTube的な表現をしばしばする。動画を見てもらいたいYouTuberは、視聴数が増えるように、サムネイルと呼ばれる各動画のみだしを作りこむ。字幕とか、ジャンプカットの多用とか、見てもらうための定石におおくは従っている。

けれども、そうしたお決まりの表現ばかりが氾濫したYouTubeに、ネット動画のアングラ感は見かけられない。オーバーグラウンドの統制にみちた、はみ出し者を許容しづらい環境になりつつある。

「ブログで稼ごう!」のような謳い文句をかかげるブロガーの記事を拝見すると、SEO対策がどうたらと、やはり見てもらうための工夫が必要らしい。はみ出し者くさい表現はダメ、ということだ。

ノスタルジアという病気を慢性で発症しているのを承知のうえで言うが、そうしたYouTubeやSNSといったビジネスにも役立つ表現フォーマットが幅をきかせる以前の、表現者と読者らからなる小さなセルが、あちこちにあった頃のネットが好きだ。そうした小さな表現者たちのサークルが、大きな市場に目を向けるような社会から、歯牙にもかけられなかった時代がなつかしい。

ちなみに、アングラの対義語をど忘れして調べ、オーバーグラウンドだと導きだした。そう、オーバーグラウンドの側に立つものが、いちいち「私たちがオーバーグラウンドだ!」などと言わない。つまり、中心と周縁の話で、ネット文化を対極の亜流のものとみているから、そうした文化をアングラと呼ぶわけで、なにか別のよくわからない、その反面、自由闊達さのある時代が、ネットにはあったのだ。


近ごろ、自分で何かまとまった文章を書くということが、減っていたように思う。だからトレーニングがてら、努めてアウトプットしていきたい。

さて、なにを書こうかと思案する段で、こう書かなきゃという呪縛にも似た考えが自分にあることに気づいた。折しも、上でつづった最近の鬱屈としたものが相合わさり、今後の書き方の方針となった。

第一に、飾らず素直なかんがえを書くようにしたい。見てもらおう読んでもらおうとして、媚びたような演出に腐心しない。たったひとつ、素直に書くといっても人を困らせるようなことには注意をはらう。

次に、参考文献はなるべく使わない。世の中は、文献を参照した記事からそうでもなさそうな眉唾物の記事まで、玉石混淆である。でもそれらはおしなべて、お役に立ちますといった顔をしている。自分はそういったものを書くつもりは一切ない。毒にも薬にもならない、ただアウトプット能力を上げる自分のプラシーボ効果は多少望めそうなものを、ひたすら投稿する。エビデンスの徹底した追求は至上命題ではない。

ネットの世界がアングラだったころから、その匿名性がどちらかというと悪いように評価されていた。匿名をいいことに、あることないこと、人の感情を慮らない書きこみがあったからだ。そういう部分は前面にださず、ネットの自由な輪を作る部分を前面にした記事を書きたい。

noteという既存の媒体をつかっておいて個人性を標榜するのもへんな話だが、ドメイン取得とかに費用をかけるほどの、大した記事でもないことの言い訳にしておこう。

ところでどうして、タイトルが「りゅうぜつらん」なのかって? これを書いた日に、一株につき一度しか花を咲かせず、咲いたらそのまま枯れていくという、そんなリュウゼツランの花を見てきたから。そういった姿勢で気ままに書き綴っていこうか。


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