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推しが展示されるので鹿児島に行った(1,2日目・桜島編/3日目前半・刀匠遺蹟巡り編)

 表題の通りです。いろいろ楽しかったので記録。そして長くなったので分割。おかしいな……2000字でまとめる気だったのだが……

経緯

 刀剣乱舞の推しのモチーフこと「太刀 銘波平行安 号笹貫」が、作刀され、数百年がっちり守り伝えられていた鹿児島の地で里帰り展示されると聞いたので、ちょっと悩んだ末行った。正確には、友人氏(Hちゃん)に悩んでいる旨を伝えたら「推しなんかなんぼでも見に行きたいだろ。ホテルが一人宿泊だと取りづらい仕様? じゃあついていくから」と背中を押されて行った。
 なお、Hちゃんは笹貫推しではない。推しを見に行く私を見についてきた。

旅程

 5日の飛行機に乗って鹿児島に飛ぶ。6日は桜島に行きたい。7日は(私がフォロワーと会いに行く都合上)別行動。8日の飛行機で帰ってくる。

 以上。
 それ以上は特に決めていない状態で飛んだ。座右の銘を「行き当たりばったり」とかに変えたほうがいいかもしらん。

装備(お供)

 いや別にいうほどのことではないのだが、ぬいぐるみ等を連れて歩いていた。私とHちゃんの実家ジャンルは児童書なのだが、それが昨年6月めでたくアニメ映画化しまして、その際にだいたいどこのジャンルにもある「ぬい」ことぬいぐるみが出たので、以来どこへ旅行するのにもたいがい連れて行っている。ぬいの情操教育と称して。
 それから、私は推しの幼児化が好きなオタクなので、推しを幼児化したアクリルキーホルダーを(フォロワーに作っていただき)持ち歩いていた。
 そうしてその引率と称してわんぱく(刀剣乱舞のキャラクターをサンリオがデザインアレンジしているシリーズ)の山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)も連れ歩いてきた。大所帯やね。都合一人と一機と二振り連れ歩いている。
 そんな具合の旅なので、写真に写り込みまくりなのだが、アラ可愛いね~と流していただけると幸いです。可愛さに言及してくれたらそれはそれで幸いです。

実家ジャンルのRDぬい(左)とわんぱくんば(右)

初日・観覧車に乗り豚しゃぶを食べる

 鹿児島には予定より少し遅れたものの無事に到着、市内(というか鹿児島中央駅)に着いたのは夕方の5時過ぎだった。そこからホテルに荷物を置いてお出かけ用鞄だけ持って外へ繰り出し、最初に向かったのは中央駅とくっついてる……? っぽい商業施設のアミュプラザ鹿児島。と、その前の義士像。
 これは結構新しいらしく、令和になってからのものとのことできれいだし、何より道路側から撮ると観覧車をバックにしてるんでなんか全体的に華やかで観光スポットとしてめちゃくちゃ優秀な配置になっている。
 ぬい~一緒にお写真撮ろうね~などとのたまいながら写真を撮り、高いところから市内を見てみたいと観覧車に向かう。いや、別にそんな理由はなく、ただ「観覧車があったから乗りたい!」で乗ったのだが……
 乗り込もうとした時に「もしかして日の入りがちょうど見えるのでは?」という話になったので時間調整をしてガチ観覧車に挑む。

 混乱しているっぽいフォロワー

 まあ日没は山際に隠れてしまったのだがいい景色だった。涼しくて桜島も山も街もすべてが見えたのでぬいにも見せてあげることにする。

いい景色だねぇ(右はHちゃんが連れてきたクイーンぬい)
べび笹〜故郷だよ〜

 そして夕食。うろちょろしたが結局アミュプラザ鹿児島内の「いちにぃさん」さんで食べる。豚しゃぶ食べたかったので。

 酒飲みフォロワー達がこぞってふぁぼっていった。フォロワー達もいつか行くといいよ。世界の全て、あったから。

 ホテルに戻って風呂入ったらもう眠かったので11時半頃には寝た。修学旅行?


2日目・無計画桜島サイクリング


 7時半に起きて身支度をし、桜島フェリーに乗る。鹿児島県民がみんなして「桜島フェリーに乗ったらうどん」と言うので頼んだ。冷静に考えてほしいんだけど15分の乗船時間で食うのこれ? と思っていたがぬいと撮影しまくっても何とかかっこめるくらいの量でちょうどよかった。おいしかった。

一口と言わず半分くらい狙ってる感ある 食うか?

 着岸直前か直後、レンタサイクル屋があることに気付いた。Hちゃんが見たいと言っていた埋没鳥居は島のほぼ反対側なのでバスか何かで行くのがいいっぽい、と判断し。

「自転車乗る?」
「乗るか」
「乗っちゃうか~」

 半周したらもう半周するのも大差ないよな、1周しようぜ1周! と無計画にサイクリングをすることにした。
 レンタサイクルのおじさまにはやや心配な顔をされつつ、こっちのルートから行くといいよと言われ船着き場を背にして左回りのルート(ビジターセンターと逆の方向、下記地図の上方向に向かう)から開始。
 鹿児島県民の皆さんなら大概わかりそうなのだが、なかなかの暴挙ではあった。

 いや、まあ、冷静に考えると桜島って火山なんですよね。植生遷移が視覚化されるくらい森が消えてまた生まれての真っ最中な島なんですよね。そしてサイズのわりに1000m級の山がド真ん中にあるわけで、我々が通る道って、大正昭和の大噴火で出てきた溶岩の上だったりするわけで。

 上り下り、当然きついんだよなあ……

一番外側のグレーの線通りに走った(多分)

 さくらじま白浜温泉センターあたりまでは海沿いなのでわりかし平坦だったんだけどな。

 絶望(上り坂)と希望(下り坂)を繰り返しつつ、ぬい達にあちこちを見せる。ぬい達~ぜーはーぜーはー海だよ~ウッ むせた

これはまだ余裕があった頃の写真な気がするな

 しかし、登った分見晴らしが大変に良かった!
 1周していくなかで面白かったのが、周囲の景色が地図通りになっていること。桜島の地図は「文明溶岩」「昭和溶岩」などのでかい噴火の時の溶岩がこの辺だよーと示してくれるタイプのがあるのですが、マジで溶岩の時代が変わると周囲の景色が変わる。
 そもそも桜島って割と南国なので、何もなければ南国な感じの風景が広がっているはずなんだよな。デカい木! デカい葉っぱ! シュロ! バナナ!

南国ぅ


 ところが、ほんの少し山道に入ると、山ったって100mとか200mなので本当ならば気温も植生も大して変わらないはずなのだけれど、いきなりシダ植物! 若くて細い松! コケ! みたいな植生になる。

保水力が少ないので涸れ川ばかりらしい

しかもちょいちょい立ち枯れして(と思っていたが今調べたら普通に虫害であった。マツノザイセンチュウによるものらしい、桜島は比較的少ないらしいが)赤くなっているのもある。亜寒帯みたいな植生だな。こんなに暑いのにね。

 そしてHちゃんが見たいと言っていた埋没鳥居。これは大正3年(1914年)の大正大噴火の際に溶岩や噴石や火山灰で埋まった腹五社神社の鳥居である。当初3mあったはずの鳥居だが、現在はこの通り1mくらいしかない。

べび、すごいなこれは


 この被害は大きく、また様子が克明に記録されていたようで、どんな前兆があったのかなどが展示にできるくらいにはたくさんあったらしい。井戸が沸騰する、大量の死魚が浮く、頻発する地震……

埋没鳥居の横にある掲示

 休憩できるような場所がなかったので避難壕でパンを食べていたのだが、その中には当時の記録や安永大噴火の言い伝えなどをもとにすぐ隣の中学校で行われている噴火時を想定した避難訓練や、その時の心がけ5か条みたいなものが所狭しと張られていた。

前兆現象リストがある
噴火が起きたら限りなく世界の終わりを感じそう

 なお、行き当たりばったりサイクリングだったため、私もHちゃんもめちゃめちゃ都会っ子な服で自転車をこいでおり、そのためか島の人達とすれ違うと「がんばれよー」とかフランクめに声をかけていただけて楽しかった。ぬいを前かごに乗っけてチャリってる胡乱人(うろんちゅ)だったのに優しい。

 また、レンタサイクルのおばさま(返しに行ったら店番がおじさまではなくなっていた)に冷凍ライチをいただいたり、船着き場の方が船が出る0分前に「現金が早いから! ほら早く!」と駆け込み乗船させてくださったり、大変親切にしていただいた。今年の冬は桜島小みかん買うね。ありがとうございました。


噴煙が出ている
足湯

 まあ、休憩込みで7時間屋外にいたので真っ黒ないし真っ赤に焼けたので、みんなはこんな行き当たりばったりサイクリングはやめたほうがいい。せめてコンビニで日焼け止め買ってからやったほうがいい。桜島港を背にして右側に歩いていくとコンビニがあるのでそっちで装備を整えてから行ってください、切実に。

3日目・ダイナミック推し活~推しの打たれた土地などを回る~

 この日は鹿児島出身フォロワーと会うので朝ご飯をジョイフル(九州中心に展開しているファミレス)で食べてからHちゃんとは解散。のち、JRに乗って待ち合わせ場所へ。

 実は推しこと笹貫を作った刀工・初代波平行安ゆかりの地は現在ではそれなりの住宅街になっている。ので、そこをめぐるために住宅街の中をうろちょろしていた。

 まずは川べりから、かつて波平本家が住んでいたという土地の碑。

波平刀匠 清見寺遺蹟

 浅学にして知らなかったので確認したのだが、「清見寺」はこの地域の小字(こあざ)だったらしい。

要約すると、ここは波平本家の屋敷があった場所です。いつのころからか本家は波平の地から1kmほど南の永田川ほとりに移住したようです。「清見寺」とは一帯の小字で、かつて東の海岸近くにあった寺の名前に由来するとか。
住まいだけでなく鍛冶場もあったことが、同書に次のように記されています。

波平刀匠 清見寺遺蹟~本家屋敷跡自家焙煎コーヒー「Gaya通信」より)

 引用元の「同書」は「薩摩の刀と鐔(つば)」(著・福永酔剣氏)とのこと。また福永酔剣だ……いい加減1冊くらいちゃんと読まねばなるまいな……(刀調べてるとしょっちゅう出てくる名前なので)

 お次は波平刀匠之遺蹟。

なぜ俺と撮るんだみたいな顔しとる
解説

 良質な砂鉄、木炭、水に恵まれた土地だったのでここに住み着いた、という話である。なんかパネルには3代目波平行安て書いてあるな……まあ初代を「一条天皇の御剣を打った」としていて2代目を「猿投神社の国宝を打った」としているのでそこから数えるとそうなるっぽい。わからん。1000年経つと記録ってあやふやになるんよな……ていうか一条天皇の御代(986~1011)に生きてたのが初代だとしたら3代目の活動年代(平安末期~鎌倉初期・鎌倉幕府成立は1185(1192)なのでその前後とする)がおかしく……いや、はい、その、時代柄やや年代があやしくなるんだよな。そういうことだと思います。はい。猿投神社の刀も2代目が打ったのか3代目が打ったのか文献によってあやふやだし。在銘刀の有無の話かもしれんし。
 でも初代をそこに置くなら明治初期まで64代続いているとされるのはまあ、そこそこ納得かもしれない。わからんけど。

寛政七年(1785年)、白尾國柱著、「麑藩名勝考」で別のことを調べていたら、巻之四、薩摩国谿山郡谷山郷福元村の項に、刀匠波平の記述があった。
(中略)
福本村波平に、古来剱匠あり。氏を橋口と号す。その鼻祖を正國といふ。正國は一条帝の御剱を作れり。本貫和州の人にて、薩州に来たり此の地に卜居す。(正國は、後ち、名を行安改めしとの説あり。又、仰木弘邦が古刀銘盡大全に、正國所造の刀、八百年と銘するもありと記す。)

刀匠波平古代文化研究所より)

 これか……? 初代正国(後に波平行安と改名・以後代々この名を用いる)から数えて3代目を笹貫を作った波平行安とするなら結構年代的には真っ当な気もするが……もともと笹貫は制作年代(13世紀)と刀工の活動時期(初代は三条宗近の師となったという文献があるが三条宗近は10世紀後半~11世紀の人間と目されることが多い)が合わねえなと思っていたので、笹貫を作ったのが3代目とすると多少納得がいく気もする。ううむ。

 脱線した。全部与太だと思ってください。

 んで、笹貫井戸。

波之平刀匠 笹貫井戸

 笹貫を打ったとされる波平行安が焼き刃渡しの際に使ったとされる井戸。この後ろに住んでいたらしい。推しの産湯と言っても過言ではない(過言だよ)。

 そして今も残る地名の「笹貫」。電停や公園になっていてちょっとほっこりする。連れ歩いているのが幼児化アクキーなのも相まって愛らしさが増す。

遊ぶ時間はないんだごめんよ

 歩いてみるとわかるが、市内でもめちゃめちゃ山がちというか、周囲全部山だなと思う。姶良カルデラを中心としたバカでかい山の跡地っつーか、現役山っつーかなんつーか、まあ、火山によってできた土地だなというのを桜島に引き続いて実感する。よく考えたら砂鉄が取れたのもその系譜の理由なのかもしれん。


 3日目を書き終えた時点で8000字を超えたので、3日目黎明館編から次のnoteに続きます。すまん! よければ見て行ってください! 実物の笹貫や国宗を見た感想はそちらにあります!

後半はこちら


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