降雪を窓から・学びのあり方

金曜日から家にじっと暮らしているのだけれど、案外これが自分の性に合っていて、本を読んだり、映画やドラマをみてじっくりと過ごすことができています。誰かと何かを話すときには感染症の話ばかりになるし、メディアも記事もなにもかも一色になっているのを見るとそれ以外のことを書きたくなる。

そうなんだけど、ある種歴史の教科書に載るようなことに立ち会っているということでもあるので、なんとも微妙な感じ。危機感を感じているのだけど、どこかこの非日常を味わっている僕がどこかにいる。

中学生の時に関東で経験した東日本大震災のときもこんな気持ちだったと思います。このようなことを書くと「不謹慎だ」っていう人がいるのかもしれないし、「被害にあった人のことを考えろよ」とかいう人のことも分かるのですが、自分なりにはできることをしているんだったならば、前向きであることの方が大事だと思うのです。自分の心境に正直にある方が健康だ。どうにも日本人は同一性が高くて、一つの話題がのぼると、自粛したがるし、それ以外のことを話すことができなってしまうようです。今の状況では仕方ないことなのだと思うけど。

不謹慎を前提で言ってしまうと、歴史的な観点で見れば、地球に存在することができる人間の数がもうすでに限界ギリギリであったことは自明のことであり、この高齢者を中心にに牙を剝くウイルスの蔓延は、地球規模の調整のようにも考えられる。(というのはSFに感化されすぎだろうか)世界規模の疫病は周期的に発生していたのであるが、人間の科学力によってそれも押さえつけられてしまい、我々が増えすぎてしまったのかもしれない。ウイルスやがんの起源はいまだに解明されていないのであるが、考えれば考えるほど、地球という生命体が生き延びるバランスをとる目的があるのではないか、(もちろんウイルス自体の目的は長く蔓延ることなのであるが)と思ってしまうわけである。

というわけで、今回の世界的な感染症は、自分の人生の一単位では、もちろん前代未聞なわけであるが、人類単位で言えば、何度も通ってきた試練なのである。暮らしがここまで一定の均一性を保つことができていた方がラッキーだったのだ。生物は適応していく必要がある。詳しい対策みたいなことは知識がない個人が発信するとマイナスの影響を与えかねないけど、自分の置かれている歴史的な文脈を自分なりにはこのように考えている。

というわけで、このような時こそ、「大変だ」と騒ぐことよりも、心が死なないようにすること生活をまた新しく構築していくことが大事なはずで、おそらく長く続くことも考えられるこの生活に適応していく必要があるはずだ。そんな生活を始める3月最後の日曜日。

さて、今日は雪が降りました。この時期はとても珍しいのではないでしょうか。今は実家にいるのですが、懐いている近くに住んでいる猫が、雪の寒さから逃れるように家に入ってきます。いつもは少し家で過ごしたら外に帰っていくのですが、この寒さなので、出してくれっていうので窓を開けて外に出すのですが、一歩だけ窓の外をのぞいて、、「寒いんでやっぱり家に戻ります」という感じですぐに引き戻ってきて、猫と一緒に家で過ごしています。と言っても猫はクロゼットの奥深くに寝ていてご飯を食べる時以外にはそんなに顔を見ることはできないのだけど。猫とともに暮れる休日。


前段と自分が世の中に感じていることはこの辺にして。

この土日で何を考えていたかというと、自分の専門でもある、学びのあり方についてである。
オンラインのあり方と、オフラインでのあり方、オフラインでしかできないことは何かという点である。

感染症対策として、学校も自宅で学ぶ方法を模索している。自分の出身大学の附属小学校は全国的にも先進的な在宅学習事例として文科省にも取り上げられた。例えばTeamsで宿題をマネジメントしたり、チャットで気軽に連絡を取れるようなインフラを整えたり、オンラインミーティングで朝の会をするようなことをしている。
しかし他の先生の知り合いに話を聞いてみると、ほとんどの学校ではそのようなことは難しく、例えばそもそもICTを介した通信インフラがない場合、家に連絡網を使って電話で連絡するという前提になってしまう。一般社会と比較すると十何年(いや何十年か)前の技術だという感じである。

このようになっている理由は、日本の学校教育におけるICTが基本的には、全体一斉授業の補助ツールとして設けられてきたわけであり、今回求められているように生徒が自律的に学ぶことや、個別学習の促進のためには設計されていないし、そのように使おうとしてもかなりの困難を極めるということである。最低限でも生徒が自分の何かしらのアカウントを自分で持っていて、学校での学習と自宅での学習を継続的に行えることが前提条件のはずである。

しかし日本の学校では、学校での学習は基本的には紙ベースで、学習活動の質は変化こそ兆しが見えているが、ICTという観点では完全に世界に置いてかれているという状況である。

そのようにオンラインでの学びがかなり厳しい状況であることが浮き彫りになったのが今の状況なはずであるが、改めて、オンラインで今の学校での学びの質を保証することがゴールとされていいのだろうか?学校での学習を自宅でもできることがゴールなのか?それは違うはずだ。オンラインの学習だけで全ての学びを網羅することはできないはずだ。

ペーパーテスト前提のインプット主義的な学習であれば、テクノロジーの力はある程度レバレッジを利かしてその効率を上げることができるかもしれないし、今はオンライン動画や予備校コンテンツの開放に注目が集まっていて、なんだ学校の学習って自宅でもできるじゃん。って局面かもしれないのであるが、それは本当だろうか?

それは今までの時代のインプットの学習が基本とされた価値観のもとであって、今の学習においては、さらに重視されている知識の活用、アウトプットが必要なはずなのだ。今は学校での学習環境が失われているということはオンライン環境でのEラーニングがあっても車輪が片方外れているという状況なのである。(もちろんそれすらできていないのは、東日本大震災で被災した世代と同じように、この世代にとって大きな負になりかねないことは必ず向き合う必要がある)

今問われるべき問いとは、どのように学びの環境を(例えばオンラインをはじめとしたセーフティな環境で)総合的に新たに設計し直していくか、という議論がされるべきなのである。

それが損なわれてしまうと、学校で構成されるプロジェクトワーク、前の世代でいうと文化祭や体育祭などの学校行事などのプロジェクトワークで培われる能力が不足してしまう可能性は大いにあるわけである。そしてそれらの能力は基本的には測定が難しいため、見過ごされたまま、彼らが育って行ってしまうかもしれないのだ。

幸いにも海外のインタラクティブコミュニケーションに関わるテクノロジーはここ数年で飛躍的に成長し、5G回線の部分的スタートも兆しとして、やりとりすることができる情報量も今以上にリッチになっていく。

ICT教育環境が一人負けの日本ではあるが、学生のSNS利用率は国際的にはトップ水準であり、オンラインでコラボレートする力は、SNSが空気のようになっている世代の彼らはもっぱら強いはずであり、環境すら構築してしまえさえすれば、一定の試行錯誤はあることを想像するが、彼らの学びは解放されるはずなのである。

マインクラフトのオープンワールドをアウトプットの場所にするのもいいだろうし、スクラッチのプロジェクトを学校内で作っていくのもいいだろう。対話やリフレクションは通話ツールが必ず役に立つはずだ。文化リソースへのアクセスはVRがすでに補完する技術をGoogleが開発しているし、美術館をオンラインでという機運も高まってきている。みんなでオンラインで鑑賞して、そのまま対話をするなどの行事を設けるなどもいいのではないだろうか。

経産相の「学びを止めるな」というスローガンがとても良かった。デジハリの佐藤先生と最近ご一緒する機会があったのであるが、可能性はあれど、日本のインフラが追いついていない状況とのことがわかった。一人一台を進めるGIGAスクール構想が進みつつあるところではあるが、この状況で先生は手が止まってしまっているのではないだろうか。本来的には、このような自体だからこそ、一人一台環境を配備する必要があるはずだ。

ずっと今までの学びのあり方を抜け出して、再構築することが求められてきた。今、学習環境が一足先にロックダウンして、学校の休校明けが迫ってきているわけであるが、本当に毎日学校に来る必要があるのか、全ての時間を今までと同じ学習の形なのか問い直す必要がある。

今社会にいる私たちは多くの時間をインターネットとつながって過ごしている、だからこのように経済活動をギリギリ止めなくていけるのだ。しかし子どもたちは学校では切り離されているのだ。まずそれをつながなければならない。学校は小さな社会なのだ。彼らが進んでいく未来への発射台なのであるから、むしろ社会よりも半歩先の環境であるべきなのだ。そうだ、だから今、みんなで考え直そう。


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