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家の中にいると生命を近くに感じる

今僕たちは、おうちで何もしないということを専らとしている。
人間が生きるということには、われわれが「活動」とともにあることが重要であることはアレントが述べた通りだ。
今、人間の活動というものがとても制限されていて、その中でこそ、僕らの生きるとはなんだったのか、ということがますます浮き彫りになってきたように思う。
家の中にいる、どうにも何かをしなければならない気持ちになる。一方で停滞する世界の中で、自分が動かなくても、取り残されなくても済むのだ、という安心感が心のどこかに存在していることが感じられる。

停滞した部屋でぼんやりとしていると、猫がベランダを訪ねてくる、可愛いと心の中で思う。生命が外界から4つ足で訪ねてくる(しかもとても可愛い)ということがとてもつもない幸運のように思う。活動はここにはなかった。しかし、広義の意味での生命の循環が確かにここにあることがありありと感じられる。人間らしい生き方が求められてきたけど、人間が家の中に座っている姿はほとんど、庭先に植っている植物とは変わらない。二酸化炭素を排出する分こちらの方が怠けているくらいだ。

猫はにゃんとなく。生命は生まれたところから死ぬところまで一直線で進む不可逆な運動のように見えるけど、地球や星の規模の定規で見れば、これは明らかに循環運動の中の要素にすぎないのだ。そして哲学はここから始まったのだ。ソクラテスはプラトンの筆を借りて、アテーナイ諸君(アテネの民衆)に尋ねた。僕が知っているのは僕が知らないということだけだ、それだけであり、しかしそれだけがゆえに私はあなたよりも、少しだけ知っているのだ。やがて生命の目的や善とは何かが問われた。そのアテネのアゴラと猫が訪ねる僕の部屋は遠いところでつながっている。彼らはソクラテスを処刑したのだ。

知らないものに対して知らない自分ということに対する恐怖がある。僕らは今、わからないものに対して「活動をしない」という対抗手段をとっている。もちろんワクチンや抗体開発、免疫獲得などの戦術は存在するが、僕らは基本的には、何も知らないものなのだ。知ろうとする姿勢の方が大事なのだ。

テレビをつけると、今日何人が死んだのか数字で示される(なぜか有名人には顔と名前が出る)。これはたまたま今、伝えられているだけなのであって、もちろんもっといろいろな人がいろいろなところで、想像を絶する速度で、動物なんて種の単位でこの星から退場していく。正確には循環に帰っていく。今まで確実に存在していたはずの、生死を全員が全員で共有しているのは、今この瞬間が今までの人類史で間違いなく最大になるだろう。僕らは生死に無頓着でありすぎたのだ。しねと書くSNSにもっとしねをこめるべきだったのだ。

猫はにゃんとなく。ご飯と催促してくれるので、僕は猫にご飯をやる。代わりに頭を撫でさせてもらう。猫のお腹は柔らかい。窓の外の緑は美しく、強く吹く風は生命の色の微細なグラデーションを僕らに示してくれる。いい天気、そしていい季節だ。

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