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年明け・非合理の波の中へ

あけましておめでとうございます。昨年は格別のお引き立てをありがとうございました。初めましての方も、いつもふと見てくださる方も、ありがとうございます。世の中にはたくさんの意味ある物事に溢れていますが、僕の文章が小さくささやかなものだとしても、誰かの何かになっているような事がもしあれば、それはこの上ない幸福です。今年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、久しぶりに元旦に初詣をしてきました。鎌倉は鶴岡八幡宮。いつもは三が日が終わってからお参りに来ていたのですが、ふと二つほど思うことがあり鎌倉を尋ねてみたところ、それはもうぎゅうぎゅう。中央線で言うと平日上り9時10分くらい。なんとか人と人の間は保つことができる程度。手水舎近く、神殿が遠く階段の上に見えたところあたりで、一旦テープで止められて、一定人数ごとにテープが上がり、区切って進むように交通整理がされていました。警察が出動してアナウンスなど対応にあたっていて、なんとも手際の良いオペレーション。暗くなってきたから気をつけてください。など参拝者へのいたわりまで、この大混雑をさばいていたのに感服していました。

じっと人の群れの中で、じりじりと進むのを待つ。右手にはなぜかふらふらしているおじさんと左と前には男女二人組、後ろにはお子さん連れ。僕は一人。参拝って確かチーム戦ではなかったと思う。いつもこんなに人が多いときにこなかったから気がつかなかったけど、一人の参拝者はあんなに人が多くても僕以外にそういえば見なかった気がする。人と人と人と人のあいだで本を読んで待つ。

皆はなぜ初詣をするのか、というと去年も含めて毎年してきたからということがあるでしょう。そしてそのような理由で行動するならば、合理で動く世の中からすると、そんなん無駄じゃんか、休みを分けてその中でも、混んでない時に分配していった方が効率的だよ、と思われるかも知れない。僕も昨年まではそう思っていて、小学生の頃までは、所属していた少年野球チームみんなで初詣を毎年いったりしていたけど、ある時から特に日取りを気にせず、自分の良きタイミングで詣るようになっていた。神様は年始に早く来た人から願いを叶えるなんてことはしないし、遅く来たからと言って、蔑ろにされることなんてきっとない。そもそも「願い事」を小学生の頃はしていたけど、いつからか、神様の前で手を合わせる時間は、昨年の感謝を伝える時間に変わっていた。

では、なぜまたあえて今年は元旦に初詣をしたか。それが先の「思うこと」なのですが、一つ目のそれは詰まるところ、非合理の中にもう一度戻ってみることを体験したかったと言うことです。


1.非合理の世界へ

世の中には、合理で動いている部分と、非合理で動いている部分の二つがあります。後者は例えば初詣をはじめとする慣習。それは合理を超えた部分、祈りや風土といったものに根付き、合理の部分は既に風化して行為のみが後世に残った仕組みです。もちろん二つは不可分で、すっぱり割り切れるものではありません。

そして僕はその非合理の世界から、だんだんとそして急速に離れていったのが、昨年の一年間でした。社会に出て、合理的選択をひたすらに作り続ける。計画を立てて遂行するということがまず自分が社会に出た初心者として身につけた小さな武器だったのです。

もちろんそれは、計画的に自分の生きるを想定するということにおいて、重要な戦略な一つで、身につけることができてとてもよかったと思うし実になった。しかし非合理でいる事がなんだか難しくなった。非合理は社会では簡単に許される事はなく、誰かに対して価値を提案するならば、それにはロジックが求められて、他の選択肢よりも適切である根拠が求められ続けた。そして僕は合理の世界へ組み込まれていった。

そもそも人の生まれとは、全くの非合理で、その理由なんてすぐに見つかるはずはなくて、なんならそれを探すことが生きることの一部であるはずでした。だけど人間というものは、大人になるにつれて賢くなっていき、解き明かすことができないはずのその非合理まで、半ば近視眼的にも合理でコーティングして、意思決定をする。非合理を一度解体して、合理的なプロセスに組み換えて、速くて便利なものに作り上げていく。

今まではそれでよかったし、それで逆算できる範囲である程度の可能性で求められた達成をすることができる。それが私たちを豊かにしてきました。とても良いことです。しかしそれが100%になることは、僕にとってはそら恐ろしいことのように思えてきたのです。

なぜか?無限の可能性があるかのように見えた自分の将来が、合理の世界で見ると、いつの間にか、あたかも数択しかないように見る事ができ始めた事に気がついたきっかけでした。

つまり、自分のこれからの人生のうちの、いくつかのシナリオを生々しく描ける事ができるようになってしまった。自分の人生自体が合理で逆算的にはじき出す事ができるところまで来てしまった、という事です。

もちろんBUCAのこの時代の中で完璧に先行きが見通せるなんてあるはずはないのですが、それは社会との関わりの話で、自分の個人的な生活については、例えば全て(ありえないですが)合理で突き詰めれば、日本に住む一定の収入を持つ人間は一様な選択をするのではないか?と思い始めたのです。何歳に結婚する?何歳に転職する?何歳に子どもが生まれる?何歳に孫が生まれて、何歳には貯金がいくらになる。エトセトラ。

大人になるということは、将来の可能性を減らしていくことと同義である、という言葉があります。まさに僕はその言葉の通りに大人になりつつあって、選択肢を減らしているところなのだと感ぜられてきました。

目指した夢に折り合いをつける。自分が持っている手札の中で、戦略上最も合理的な選択肢を選ぶことをしてきました。中学もそう、高校もそう、大学もそうでした。もちろん、それは周りの助けをもちろん借りた上で、全てが主体的な意思決定でした。その上で自分が興味関心を強く持つ領域を選ぶことができていて、それに関しては、優柔不断な自分なりに、悩み抜いて良い選択をする事ができたと思っています。

ただ合理的な選択を続ける事の恐ろしさにふと気が付いたのです。僕はこれから何度、非合理な選択をする事ができるのでしょう。今この日本では、そして平和に向かう世界では、個人の選択に自由が与えられています。しかし、合理の世界で生き続ける自分は、非合理な選択をする事ができるのか?

「すれば良い」という声が自分の中からも聞こえますが、例えば、今日今の家を引き払って、山奥に転居して、晴耕雨読の生活をはじめることができるのか?答えは否だろう。きっと1%もない。では明日は?明後日は?1週間後は?おそらくたいしてその可能性は上がらない。

可能性はもっと先を見れば広がるかも知れないけれど、合理的意思決定の恐ろしいことは、最も有効な戦略を選ぶということにあります。なので、晴耕雨読の生活の自分にとってのメリットがデメリットを超える時にしか選択され得ないのだ。明日も明日の明日もその次の日も。

なぜか。それは合理の選択は、非合理よりも選んでしまえば楽だからです。予測さえ立てればそれは自分の想定を超えることは少ない。あなたが明日の朝、ドアを開けて、外に出て、家に帰るまでの間を予測することは難しくはないでしょう。一方で、非合理の選択は選ぶのに根拠はいらないが、その先が分からない点が大きなデメリットになりうるし、先行きがわかる人生を歩んできた自分にとってのストレスになるからだ。

だから僕は合理と非合理の間にいたい。釣り合いを取りたい。2年前にロジカルにエモーショナルという題で細々とした連載をはじめたのは、社会に組み込まれ、合理の波に飲まれそうになった時に、僕の中の導としてそれを突き立てたかったからでした。


鈴木大拙は、欧米に禅を伝える言葉の中で、悟りについて述べる章において、真理とは、知性的、論理的に導かれるものではなく、問いとはそもそも、自信を客体化する知性によって引き起こされるもの(だから人間に固有なのだ)だが、その解決は知性によってされることは不可能で、自らが体験を通して問いと同一になることによってのみもたらされると述べました。そしてその矛盾のように見えるものを解きほぐすために悟りを見出したのです。

人生の根本的問題は、主客を分つものであってはならぬ。問いは知性的に起こされるのであるが、答えは体験的でなくてはならぬ。なぜならば、知性の性質として、知性上の答えは必ず次から次と問いを呼び求め、最後の答えに辿り着く事がない。その上、たとえ知性の解決というものが得られたとしても、それはつねに知性の上に留まり、おのれ自身の存在を揺り動かすものとはなり得ない。知性はただ周囲を空まわりし、かつつねに、二者対立の形で物事を取り上げる。 
                        鈴木大拙『禅』p.24

自らを客観的に見て、ひたすら正解を求め続けることでは「人生の根本的問題」に向き合うことはできない。一度解らしきものが見えたとて、それはさらなる次の問いを生むのみなのです。「知性上の解決」だけが繰り返されて、真理から離れ、空転し続ける。


大人になればなるほど、守るものが増えるほどに、賢くなればなるほど、僕らは非合理の世界から身を置こうとする。開かれていたはずの扉たちは、いつの間にか閉じられて、手すら届かない。親しく瞬いていたはずの星たちは、ビルの灯の奥に霞んで、嘘みたいな点灯をしている。世界は発見に満ちていない、発見をすればする程に未発見は減っていく。経験すればするほどに未経験は減っていく。経験してきたこと、誰もが知っている道でこれからを設計するようになる。明日何があるだろう、と目を閉じる日々はもう帰ってこない。

2.「なんとなく」が引き寄せる

それで良いのか?
と思ったのが今年の初め。だから2つ目の理由は「なんとなく」でした。
自分の合理性に逆らって、わざわざ人波に飲まれにいった。別に週末にでも初詣に行くことはできる。その方が空いているし、時間もかからない。そもそも人混みが苦手な僕だし、ゆっくり感謝を伝えることもできる。だけど、あの人波に自分を投げ込むことで何かが起こるかも知れないと思ったのです。

キャリアにおいて既にある言葉で語るなれば、計画された偶発性、ジョブズの言葉でいえば「Connecting  The dots」。さらにそれを引き寄せるためには、偶然を引き寄せ、偶然を受け入れる必要があると思うのです。そのために、僕は非合理の世界を大切にしたい。それは合理では説明しきる事ができない領域。理屈では分からない感覚。合理の延長線上では出会いうることのない出来事。

結局特に何も起こらないで、階段の上まで時間をかけて登り、黙々と手を合わせました。
でも帰り道に偶然喫茶店を見つけました。その喫茶店がとても親しみ深くて、奥の部屋にささやかな本棚があって、そのラインナップもとても僕の興味を強く惹いた。店員さんと本についていくつか話して興味を持つ本が重なる。珈琲も美味しくて、甘味も素晴らしく、その日は会えなかったけど猫もいるらしい。予期できなかった幸せが僕を迎えてくれた。もちろんこの日に赴いたから出会えたわけではないかも知れないのだけど、数ある可能性の中から、偶然に出会う事ができたのは、自分がそれを誘発するように意思決定をしたからだと思う。

この生命は一回勝負です。だから持てる心と持てる力を尽くしたい。熱のある選択をしたい。
とりわけ今のところは、この偶然に出会う事ができたプリンに全力を注ごう。

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