見出し画像

紫陽花は白めが良い・座禅の日

梅雨ですね。季節の巡りは振り返れば早いもので、季節がやってきたかと思えば、味わおうとした矢先にもう終わりですね、なんて言われてしまいがちなのだから、急いで季節を噛み締めようと、その裾先をひっつかむのが季節の終わりのいつもです。ご飯屋さんなどではもっぱら季節の食べ物ばかり頼んでしまうし、ケーキ屋さんになぞ行ったらば、「季節限定」の四文字の並ぶもの端から白い箱に詰め込んでくださいませと伝えてしまう次第です。(それは食い意地のせいか)

さて、6月も瀬まで来て、雨降らんなあ、とか思っていたら、気づけばよくよく降ってるし、台風も来たらしいし、なんだかもうビュンビュンと季節が巡っているのを感じているところ、次の瞬間に気づいたらば暑いベタつき長い日本の夏がやってくるのですから、梅雨くらい楽しんでおこうと、帰りの電車で鎌倉散歩を思いついたのでした。

鎌倉は高校時代からよく通っていて、時々寝過ごしたら着いちゃってる路線で通っていたこともあり、当時はあーあと思いながらプラットフォームから緑緑、森森など眺めていたりしたもので、時の週末の夕方は座禅会に参加もしたり。自転車で行くほど近くはないけど、気軽さでいうと結構近い。

春先ぶりに北鎌倉に降り立って、まず東慶寺に足を伸ばす。江戸時代までは縁切り寺と呼ばれたお寺です。門の手前から、紫陽花がわらわら、と咲いている。もう梅雨も終わりだからなのか、心なしかくってりとしておられる。元気をお出しよ。と思いながら眺めるけど、紫陽花はこんな感じで淑やかに咲いているのが梅雨らしくていいんじゃないかと思い直して、紫陽花は紫陽花としてこれでいいのだ、なんて思い直しました。紫陽花がひまわりみたいな溌剌とした色してたら「なんかちがう」って感じですもんね。

紫陽花の咲く色は、土のphで変わるのですが、境内の中の紫陽花はもっぱら淡い色をしていて、多くは白色をしてました。ということは手入れされているのか、土はナチュラルな状態なのか(ということなのかわかりませんが)まあそうなのですか、など思いながら歩きつつ眺めていました。紫陽花の記憶って子どもの頃だとなんだか色あざやかなピンク色(酸性)か青色(アルカリ性)って思ってましたけど、理科の印象が強すぎるからですかね。野良紫陽花(ほとんどはそうか)だと色々な天候や人間や野良動物の影響を受けて色を激動させているのを考えると、なんとも大変だなあと思う。だって自分が食べた食材によって髪の毛の色が変わるって大変じゃない?いや、むしろちょっと楽しそうか。紫陽花もまあつやつやと楽しげだし、そういうものなんだろうな。

一番好きな紫陽花の色は?と聞かれたら、白いのが僕は好きになった気がします。白い紫陽花はなんだか儚げというか薄幸な感じがして、どうにも励ましてあげたくなるところが良い。青いのや赤いのには負けるなよ、校則があればすぐ生徒指導してやる(?)だとか(好みになんか性格があらわれそう)。まあどれが好きとかもあるけど、紫陽花の強烈な夏の前のその曖昧なところが結局のところ好きなのでしょうね。その日の雨の成分とかで色が変わっちゃうようなふわりふわりした色調がぼんやりとしていて肩の力が抜ける気がします。夏も夏でビビッドで彩度の高い色もそれはそれで好きだけどね。どれも味わい深い。

さ、紫陽花よく眺めたし、閉門時間も迫っているので東慶寺を後にして、建長寺に向かいます。夕方から春ぶりの坐禅会です。結構久しぶりで、うまく組めるかちょっと不安。とか思っていたら割と時間が危なくなってきたので、小走り。途中で「なっちゃんりんご味」のちっちゃい奴を自販機でゴトンとかって、半分くらいぐいと飲み干して門に向かう。門をくぐり、本堂に向かう。どうやら間に合ったみたいです。座布団が残り少ししかなくて、今まで見た中で一番の人出でした。自分の場所をどうにか見つけて、お坊さんが開始の挨拶などをするまで自分で組んでいます。いつもは堂の内側に坐るのですが、人が多かったので、外側で外の景色を眺めるような形で座布団を広げます。坐るときはあんまり景色が楽しいと没頭できないのですが、境内の整った景色と、おそらく一年で二番目に気持ちのいい風(一番は春かな)に吹かれてこれもいいやと思って坐ります。

お坊さんの挨拶があって、拍子木がカンッ、カンッッ、鐘がコーーーン、コーーーンと何度か鳴らされて、開始です。そして鐘の音がとても好き。

久しぶりなので、初めに警策をもらいます。なんか長くて平たいやつで肩を「べしべしっっ!」と叩いていただくやつです。あれは自分で合掌して、背中を丸めて、ベシッといただくものなのですが、やはりいただくとシャッキリとする。一人でも坐禅はできるけど、この「べしべしっっ!」いただくのは一人ではできないので、律せられる。なんだかこういう風に書いてしまうと叩いてもらうために鎌倉に来てるみたいになるけど違います。でも時々、一回の坐禅で何度も何度も警策をもらう人もいたりするけど、悟り以外の何かに目覚められてもお坊さんは困ると思う。

坐禅で大事なのは、何も考えないこと、今ここを意識する、三昧の心で坐るのが大事なんですけど、しばらく坐って最近の環境変化で色々と考えてしまいがちな頭の中をしているなということが、分かりました。石とか、草木花とかと自分も一緒で、風にただ吹かれ、地球に根付く一つのただの生命として在ること自体に意識することが肝なのですが、どうにも人間は未来のことや過去のことで悩みやすい、来週までに何をしなくちゃ、昨日あの時にああ言えばよかったな、とか。それも人間らしいと思うけど、そればかりだと疲れますよね。いやいやと振り払い、グッとお腹の下の方に力を込めて数を数えます(数息と言います)何度か集中しますが、時々途切れてしまうこともあり。でもこのような状態で在ることを自覚できたのは良かった気がします。

もうちょっと組みたかったな、くらいで今回は終わりでした。気づいたら日も少し斜めになっている。もう閉門時間は過ぎているので、勝手口から出ます。みなさんそろそろと、帰路につきます。そしてそのひはそのあと八幡宮に行って、お菓子屋さんに行って、洋菓子をイートインして、テイクアウトもしました。全部季節のやつ。

坐禅は冬に組むと足先が冷たくてこれも辛く、夏だとジワリジワリと暑さがしんどいのですが、このような季節は季節を楽しみ感じつつ組めるのがまたいいですね。また時間ができたら、季節を感じにこようっと。東京にいると、季節って忘れてしまいがちですものね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?