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偏愛するということ・ぼーちゃんの石

自分の偏愛ってなんだろう?と考える時間が最近増えた気がします。

時間をいくらつぎ込んでも足りない、この時間がずっと続けばいいのにな、と感じる時間を思い出す。僕の場合には美味しいものを食べたり、銭湯で湯に浸かっている時間。

愛を注ぐことによって人は幸福を感じます。
子どもの時代にはまず人は愛を注がれることによって快楽や安心感を得ますが、成熟していくと人は愛することを通じて、つまり愛する行為の主体となることで幸福を感じたり、有用感を感じるようになっていきます。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

(E.フロム『愛の技法』p41)

では偏愛とは何か?を考えてみると、その愛が偏っている様子、その愛の程度が他の人よりも深いというニュアンスが含まれているように思います。
そしてある文脈では、「マニアック」という言葉のかつての使われ方のように、ある種の揶揄とも捉えられるような意味とも重なっていることもあったようですが、現代において偏愛とは、むしろポジティブなニュアンスをもって語られるような気がします。(へえ、そんな音楽好きなんだ!知らなんだ!かっこいい…みたいに)

その背景としては、以前別の文章で述べたように、戦後まで存在していた、大多数によって共有される本流に対して、その傍流という主従構造がすでに解体されつつあり、独立した小グループのそれぞれの価値観による小宇宙のような社会構造に変化した結果、むしろ偏愛とは、それぞれのグループの中で共有する大切なもの、とされるようになったからかも知れません。

では人はどのように何かを偏愛していくようになってきたのでしょうか?
戦後に共同体の中で共通で(敬)愛するべきものが自明な時代が終わり(天皇制のように)、全世代を通じて共通のアイコンを愛する時代を経て(テレビドラマで活躍するアイドルのように)、それぞれが愛する対象を持っている時代(世代やコミュニティごとにそれぞれの推しがいるように)に差し掛かっていると感じています。

そのような働きの一翼をインターネットという土壌が底支えしてきたように感じます。広大で無数の巣穴があるような構造をしたインターネットの世界は、何かを偏愛することととても相性が良いです。
メジャーな世界線である日常生活で触れることのできないような多様な世界に触れ合うことで、自分の好き嫌いを深める機会になり得ますし(メディアリテラシーが伴っていないと危うさを伴うことすらありますが)何か愛すべきものを見つけたときに、それがマイナーであっても、同じ偏愛を持つ仲間を見つけることもできます。

例えば、私はYouTubeで熱心にスパチャを(ぎりぎりまだ)したことは(たぶん)ないのですが、それがきっと病みつきになるような体験であることは(とても容易に)想像がつきます。
同じ偏愛を持つコミュニティの中で、対象にその場でラブレターを渡すことができる、そして愛する対象の活動支援費にもなって、その場で感謝も述べてくれることもある。(推し活に熱が入る)

対象を愛するという内発的な動機に加えて、対象からの強いフィードバックという外発的な動機も重なります。ニコニコ動画でも広告という形で好きなクリエイターに広告主として出資する仕組みがありましたね(懐かしい)「推し」とはまさに偏愛を表す言葉です。

何かを能動的に愛したいという人が自然に持つ傾向の行き先が、時代とともに変遷してきました。
そしてインターネットの世界は主流の傍で静かに何かを愛するという行為を受けとめる土壌を育てていたと感じられます。

バーチャルから物理的な空間に目を移してみると、中野の小劇場にお笑いなどを見に行くついでに、中野ブロードウェイを散歩するのですが、ここは、まさに個々人の偏愛を物理的な空間にしたような場所です。やはり心なしかその景色はインターネットに良く似ています。小さなブースがより集まった巣穴のような構造で、それぞれの区画に独自の言語の小宇宙が広がっている。

自分の知らない誰かの偏愛の世界に足を踏み入れてみると、そのエネルギーに圧倒されます。それぞれ独自の文化が発達しているので、周りを見渡しても、何がなんの何なのか半分も…理解できない…ということもよくあります。

しかし、理解はおよばないけれどもその説明のつかない、その対象に対する熱の量は伝わってくるようです。そのほとばしる愛を感じたいがゆえに知らない世界を覗き込みたくなります。
例えば、商品に添えられたポップ一つをとっても、その場所で築いてきたさまざまな人による豊かな対象への愛とその系譜、文化をみることができます。そして外の住人からは理解できないような値札がついていたりする。(それを眺めてぎょっとしてそっっと元の場所に両手で戻す)

まさに自分の中にこんな場所を持っていること、自分だけの小宇宙を持っていることは(ハリーポッターで言う『必要の部屋』のように、ハリーポッターレガシー楽しい)生活を豊かにすると思います。

値札をとっても、希少性による価格設定もあるのではあると思うのですが、相対的ではない、論理的に説明はできないけれど、想い出があるとか、強い執着心があるとか、とにかく自分にとっては価値がある、プライスレスな対象を持っていることは、すなわち生きることのよろこびです。

愛を注ぎすぎて枯れることは中々ありません。注げば注ぐだけ、対象への愛着が深まって、もっともっと愛を注ぎたくなる。もちろん枯れないわけではありません。身体的・心理的に安全ではない状態であれば、人は何かに愛を注ぐこともできないでしょう。一方で、枯れないが故に依存心が高まって危険な状態になることもあるかもしれません。



普遍的ないわゆる愛について話を移しましょう

愛を注ぐという行為は、資本主義によって発展した公平性という倫理とは、似たようで異なるものでもあります。つまり「与えられた分だけ、与えなさい」とはなりません。

資本主義は誰かを愛する権利を互いに認めますが、その対価として愛される(愛し返される)ことを射程に入れていません。つまり愛と公平は異なるものであると言えましょう。
(例え話、好意を持っている誰かに対してたくさん贈り物をして、そしたらお返しをその誰かからもらえれることを資本主義の文脈の中で正当に主張することはできません、愛とは不公平なものです、想像でしかないですが歌舞伎町あたりでありそうな話です)

人は返報性を期待して人は自分のリソースを割いて何かを愛するわけではありません。なぜなら対象を愛すること自体に労力を割いてあまりある価値があるからです。言葉を選ばなければ、対象は注がれる器として存在することに価値があるのです。



実家に帰省したある時に夕食の鍋を囲みながらに母親と話をしていると、自分に対する肯定感はどこから湧き起こるか?という話題になりました。

経緯としては、仕事で自分と他人で折り合いがつかないことがあり、自信を失いかけつつある自分について話したことがきっかけでした。
つまり自分が否定されるような出来事があったとしても、自分の根底に自分に対する信頼感、どんなに自分がだめなやつでも、それも自分であることを受け入れる土壌があること、これを肯定感と解して、それはどのような経験から形成されるのか?それがある人とない人、大きい人と小さい人の差は何か?という問いを考えました。

母の仮説はとても人の親らしく(といいますか)誰かから無償の愛を受ける経験をしているか?によるというものでした。つまり、自分のふるまいや能力ではなく、アイデンティティに近い部分に対して、深い肯定を受けていることが関係しているのではないかということです。
確かに、アイデンティティに近い部分に対して肯定を受ける経験を小さい頃にしていればこそ、失敗してもいい、間違っても怖くない(だって自分は存在自体を深く認められているから)という自尊心が芽生えていることが、ゆくゆく自己肯定感に繋がり、何かストレスがかかった場合の弾力性(カタカナで言えばレジリエンスでしょうか)を形成するのではないか。

母は「その点、結構頑張ったんだけどな〜」と雑炊まで炊き終わった鍋をニコニコ運びながらこの話を結んでいましたが、確かに結局この出来事を傷つきながらもある程度は乗り越えることができたのは、一部は幼い頃に形成された精神によるものであったのかもしれません(母に感謝)

つまり、何かに打ちのめされた時に、底から戻ってくることができるセーブポイントがあるということ。全てを否定されたと感じても、しんどみが深すぎてとことんだめでも、ここまでは自分はOKであると、心の底から思える地点があるか?ということなのだと思います。
安全さえ取り戻すことができれば時間をかけて再び浮かび上がってくることができる、健全な自己愛はそのような性質を備えます。(しかし、もちろんそれは完全ではなく心には可塑性もあるので、限界があります、潰されたスチール缶のように心は一度大きく凹めば完全には戻りません)

大きく分けると、最初に人間が受けとる愛には、無償で無条件的な母性的な愛と、条件付きで権威的な父性的な愛の二つがあると言われています。
自分の仮説としては、母性的な愛から受け取る際たるものが、上で触れたような、自己への肯定的な感情、父性的な愛から受け取る際たるものが、判断力といったものであると考えています。


愛するということの本質は冒頭でフロムの言葉を引いたように「能動的」であることです。そしてフロムはこのようにも話しています。

愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の1つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。

E.フロム『愛の技法』p76

愛とは何かと結び合う関係や対象を指し示すのではなく、その人間性を示すと言っています。確かに納得感があります。時代を顧みても、何を愛するかは大きな問題ではなくて、世界に(つまり対象は何でもいい)人間には愛するという指向性(それが態度として表出する)が備わってることことが分かります。

どんな対象でも人間は愛することができます。ボーちゃんがあらゆる場所で拾った石をこよなく愛するように。
その対象は時代を伴って変わってきましたし、人間にその指向性があったからこそ、宗教が人間の歴史にとって重要な要因になり続けているのでしょう。歴史とは見方を変えれば、人間の愛の指向性の変遷であるとも言えるのではないでしょうか。

では上手に愛するとは何だろうか?
愛とは指向性であり、人はそれをある程度は誰もが抱えていて、それとうまく付き合っていく必要がある。いや、うまく付き合うなんてことは難しいかもしれないけれど、少なくとも生きることを通じて向き合っていく必要があると思います。
アリストテレスは上手な(彼はもっと厳しくアレテー(卓越性)と示しましたが)愛との付き合い方をこのように述べています。

愛されることをひとびとが悦ぶのは、愛されるということそれ自身のゆえでなくてはならない。
(中略)愛はむしろ、愛するということに存するのであってみれば、そして「友を愛するひとびと」は賞賛されるのであってみれば、親愛なひとびとの卓越性<アレテー>なるものは、愛するということにあるように思われる。したがって、お互いの間においてこの愛するということが価値に応じて行われているひとびとは持続性のある友であり、彼らの愛は持続性を帯びている。均等ならぬひとびとがやはり友たりうるのは、何よりもかかる仕方においてである。これによって彼らは均等化されるわけだからである。

アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』岩波書店.p87-88

彼は持続性のある愛の重要性を認め、それは「愛されるということそれ自身のゆえ」つまり目的的ではない、互いに受け取る愛それ自体による悦びがあるべき(彼にとっては卓越性のために)で、暗にそれが承認されることや、名誉への欲といったものに結びつくことを避けているようにも思われます。

自分のことを省みて、均等化された関係の友人(当時は階級制があったがゆえにこのように書かれているのでしょうが、対等くらいに捉えていいと思います)を思い浮かべてみると、自分はどのような姿勢で向き合っているでしょうか。



偏愛に話を戻してみましょう

愛とは対象ではなく、指向性であり、愛することそのものによって生まれるものです。

何かへの深い愛によって突き動かされる人として心に残っている人に島田潤一郎さんがいます。島田さんは、親しい親族を喪ったことをきっかけに、その親戚の遺族に贈るための一つの詩を本の形にして出版するためだけに、一人で出版社を立ち上げました。彼は本への愛をこのように語ります。

ただ、便利なだけではなく、読むと得をするというようなものでもない。もちろん、だれかを打ち負かすための根拠になるようなものでもない。 焦がれるもの。思うもの。胸に抱いて、持ち帰りたいようなもの。ぼくは思う。好きな作家がいて、ほしい本があって、それをいつか手に入れたいと願う。こうしたことが、かけがえのない、幸せなのだ。手に入るか入らないかが、その尺度になるのではなくて、ほしいものがある、好きな人がいるということが、すなわち、生きることなのではないか、とすら思う。 

島田潤一郎『明日から出版社』p.133

僕も本を愛する者の一人として強く共感をします。
自分の家の本棚に愛する作家の本達があって、いつでも手に取れる喜び。僕が愛さるべき本がないかを本屋で探し回って、まだ手にしたことのないそのタイトルを見つけたら、とっても嬉しくなって、レジまで足早に持っていって、そのまま喫茶店に突進するように入り、海に潜る時と同じようにはっ、と息を吸ってから読みふける。いつの間にか机にあるコーヒーは冷えたままになっている。そんな存在があることが生きることではないかと思ってしまいます。

なべを囲んだ母も偏愛が大変上手な人です。
特に動植物を育てることがとても好きなようで、とにかく対象に対して水なりご飯なりを注いでは丸々としていってもらうことに喜びを感じているようです。
ただ、植物などは目に入ったらつい水をやってしまうので、根腐れさせてしまうこともしばしばでした(水やりのいらないサボテンやエアプランツの類はつまらぬらしい)
動物方面ですと、人生通じて特に猫に縁があるようで、代々母に育てられた猫たちはもれなく野良出身ですが、やはりみなさま丸々させられて、そして長寿でした。 その親のもとで育った私ももれなく小学生時代は丸々としていました(今は…?)


何を愛するか、はそんな大した問題ではないのではないかと思いはじめました。偏愛なんて言葉を掲げて文章を書きはじめましたが、愛なんて全て偏っているともいえます。愛は公平ではないのですから、理屈なんてありませんし、大抵偏っていない愛なんてありません。

愛の本質は姿勢にあると考えるのであれば、対象に焦点を当てていることは本質を掴み損なってしまう危うさすらあるかもしれません(マニアックという言葉が昔含んでいた意味のように)

でも偏愛という言葉の意味が今一度握り直されている意味があるとするのであれば、それは自分が愛に対してどのように向き合っているかを、対象を通じて内省する機会になることだと思います。

私たちが、それぞれが異なる何かを愛する時代になったからこそ「偏愛」という言葉になって社会に問われているのでもあると思います。


分断したコミュニティが主に移ろいつつある現代においては、自分とは異なる対象を愛する誰かと一緒に付き合っていく必要があります。昔は同じものを愛している人が多かったならば、ある意味簡単に仲間意識を持つことができたかもしれません。


でもこれから「何かを愛する」という姿勢自体をお互いに認めることで生きていかなければ立ち行かない時代になるのだと思います。

ぼーちゃんは珍しい石が好きで、しんちゃんはななこおねいさんのことが好きで、かざま君はもえPが好きで、彼らはその世界との付き合い方に基づいて、互いに結ばれているのです。

あなたにとってのボーちゃんの石を手のひらの上に乗せて眺める。
偏愛することを通じて、にこにことして生きていきたいものです。
そして愛することを通じていつか彼のようなしなやかさを持った人になれるとよいなあと思います。

では銭湯行ってきます

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