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ビルの上の月・孤独と『須磨の浦波』

あなたは月を見た時に何を思いますか?月に何かの思いを重ねたことはありますか?それは一体どんなものでしたか。

ビルの上にぽっかり浮かぶ月。闇の訪れの前、深い藍色が空をほんのひと時だけ鮮やかに染めている。僕は荻窪のビルにある銭湯で温泉に浸かりながら、衝立の上に燦々と止まっている月を眺めていた。

浸かっているのはナトリウム泉。しょっぱい湯に身体がポカポカと温かい。実のところ湯船に浸かるのは本日二度目で、同じ湯船で同じ場所に腰掛けて昼下がりには水色の空と「もう、夏ですよ」と言わんばかりの雲とを眺めていた。もうそろそろ夏を感じますね。

今朝溜まっていた洗濯物をごうんごうんと回してばさっと干してきたのは気持ちよかったな。唐突なのですが、僕はビルの間に浮かぶ月が割りかし好きです。なぜか。月とビルの対比というか、月の絶対普遍性とビルの栄枯盛衰の差がなんとも言えない心の奥をくすぐるから(なのかもしれない)。それでいうと、今日のビルの上の月は本当に素晴らしかった。

ビルの4階、衝立の先に浮かぶ月、中央線が走る音、バッティングセンターからカコーンと金属とゴムボールがぶつかる小気味のいい音、自分が浸されているのは大地が注ぐ温泉。(どっかからもってきたのか湧いてるかは知らないけど武蔵野泉という名前だそうだ)生まれ滅びる人為的な被創造物と悠久に空を揺蕩う月のくらくらするようなコントラスト。はあ、うっとりしてしまう。何度も何度もこの月は浮かんでは沈んで、海の水をゆっくり動くプレートが温めて、こんこんと溢れているその動きのなんとも途方も無いことよ。その間人は生きて死んで、ビルは建ち、崩れ、埋められ、また生まれを繰り返す。この湯船から定点観測をしたらならば、なんともその動きの違いがあることか。

一度目の温泉と、二度目の温泉の間の時間で読んでいたのが源氏物語『須磨の浦波』だった。眉目秀麗、才色兼備の光源氏が政治的失墜で都からついに住まいを移して、地方というほどではないが、都からは遠く、海の近い村、須磨に暮れる日々を描いた章である。だんだんと宮廷での友人知人からの消息も減ってくる。恋しさがだんだんと募ってくるその様子。源氏は空を見上げては飛ぶ鳥にいつしか宮廷に帰る日を遠くのぞんだり、海から寄せてくる潮風に思いを寄せたりするのである。

人間は孤独になると、移り変るものたち(例えばビルや人間関係)よりも、不変、悠久の時間と結びつくものたち(月や海に寄せる波音)に心を寄せるものだ。速い時間の流れ、キロキロと目まぐるしく変わる世に対して一人ポツンと取り残された時に、癒してくれるのは、そのようなものたちだけなのかもしれない。

そう考えると僕も孤独を感じたのかもしれない、(こんな文章を認めているのだからある程度そうなのかもしれない)人間は孤独だということを知っているし、喪失そして孤独の先に生まれる絶望とその刹那に見える光こそ幸せであり、喪失の先の孤独こそが人生を本当に励ますものであると、そう信じているからこそ、孤独であることに生きる意味のうちの一つを見出そうとしている。源氏も、月を見てはそれを自分が思いを寄せる何かにつけてそれを投影してきた。人間が人生のよろこびを本当に見いだすのは孤独の時だ。月はそれを照らしてくれる(ときが、いつの日かほんの偶にある)

月をずうっと見つめていると、それは全く動かないもののように思えてくる、けれど夜の間にそれは空の端から空の端にすうっと伸びて消えていく、繰り返し(×∞)。トロトロとしたナトリウム泉に肩まで浸かる。まぶたまでなんだか眩しい光を見たかのように重くなってくる(実際に月はとても明るかった)美味しそうにまんまるで雪見だいふくを思い出してお腹が減ってきた。

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たくさん動いて、たくさん食べて、たくさんお湯に浸かった日曜日でした。なんだか月というのは奇妙なものですよね。本当に。小学生の頃の作文の授業で景色を原稿用紙一枚で描写するという課題があったのですが、自分は夜に浮かぶ月を書いて、「空にぽっかりと穴が空いたような」みたいな表現をしていました。今思えば、月に対して何か喪失感とか、欠落感を感じていたのかもしれないです。

今でも強く覚えているのは、小学生(低〜中学年だったかな)の頃、母との買い物帰り、車で家に着いた時、ぽっかりと浮かぶ月を眺めていたらどうしようもなく悲しくなって、泣き始めてしまったことがありました。母に自分が言ったのは「いつか母さんも死んでしまうんだね」と。母は答えに詰まっていました。あれが多分僕の月に対する原体験で、きっと月に対して自分の強い孤独を感じてしまったのかもしれない。あんなにずっと浮かんでいる月と対比して、いつか自分が一人になることの自明性を突きつけられてしまった。全くその時その瞬間まで考えたことがなかった、いつか自分も一人になってしまうんだと。あの日の月と今日の月がとてもよく似て大きくて、強く光っていたので、この時の気持ちを掘り起こして書き連ねた次第です。

あなたは月を見た時に何を思いますか?月に何かの思いを重ねたことはありますか?それは一体どんなものでしたか?季節をじっくり味わいつつ、今浮かぶ月は今年この日しか見ることができないことに気づいて、もっと月を眺めていたいものですね。スマホとかよりは上見ようよ。


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