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2023.7.10(月)寛容とは何か?生きる主題

週末は午睡も含めると10時間くらい眠りました、泥のように眠るとはこのこと。日曜は読書会が2つ、美学論と本紹介型を一つずつ。とくに紹介型の方では、生きていくテーマをどうするか?という話になってとても興味深かったです。

私が抱えるテーマの一つは「寛容」についてでした。

以前、優しい人であろうこと、善き人であろうこととは何か?という問いを母と話していたことがきっかけだったのか、ふと連絡が来てこれ読んでみたら?とタイトルが送られてきたのが『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』(渡辺一夫)で、これが私にとってこの問いを深めていくターニングポイントにもなりました。

八方美人ならぬ億方美人として偽善者の仮面をこそ貫き通すことを美徳として渡辺一夫がいうには、『人間は天使になろうとして豚になりやすい』ストレートによくあること、よさとは何かをギリシャ哲学から出発して、カント…そして現代倫理学へとたどり、素朴にそれを問うていた私にとっては鈍器で殴られるような言葉ばかりでした、戦乱の中でそれを目指すことの厳しさで語られる、寛容への問いの強靭さに自分の考える優しさなんてものはまだ柔らかいものに過ぎないとすら覚えたことをよく覚えています。

私にとって寛容とは、判断の留保であり、別の可能性への予知を残すことであり、他者の領域を認め、そして尊重する姿勢のことを含みます。

一般的な寛容論とはズレますが、例えばピカソのゲルニカを眺めた時に、「戦争の絵だ」と思ったとします。それが通説だと分かっていたとしても、隣のある人が「これは愛について描いているんだ」と言われた時に「いやそうではなくて」ではなくて「いや確かにそのような見方もありうるのかもな」といえる姿勢のことであることです。

相対主義の問題がここで生まれるわけですが、そこからもう一つの美学論が実は関わってきて、2つの読書会が自分の頭の中で繋がったところがとても面白かったです。こういうことがあるから、いくつかの本を並行で読む楽しみがあります。

人生のテーマを何か選ぶ時、私たちはそこに向かって日々を過ごせているのだろうか?そもそもテーマを見失う人もいれば、テーマはあれどそこに向かっている感覚を持てていない人もいる。

そんな呟きが共有された時、そんな日々をどう乗り越えていくのかということは、難しい問題だと思います。折り合いをつけることでだんだんと痛みがなくなってくる感覚はきっと恐ろしい、けれどだんだんと痛みが消えている自分に気づいていく、生きることには少なからずそのような側面が含まれています。あの幼少期の目に染みるように周りの景色が飛び込んできた毎日はすでに遠い。

その色彩の瑞々しさを求めるためには、感受性が必要で、痛みに自覚的であることが必要で、時には荒療治で、痛みのある環境に飛び込んだり、いつもは選ばない大変な選択肢を取る必要があるかもしれないです。そこにはある種の自己否定が必要になる、あの時選んだ選択肢は、少なくとも今の自分にはあっていないかもしれない、ということを認める必要がある。とかとか、みんないろいろな場所で悩みながら生きてるものです。

ということで週末美味しかった沖縄料理を貼ります。

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