見出し画像

ここは誰かの小宇宙・他者寛容

最近よく分からないけど、もやっとしていること。
「他人に対して共感することが良い」という価値観がなんとなく世の中にある気がしていて、それが少し気になります。家でテレビを見ることはないのですが、定食屋さんとかでふとワイドショーとか見ているととても強い違和感を持つようになりました。なんでだろう。

何かしらの意図された感情を、誰かから押し付けられているような感覚が、自分をなんかもにょっとした気持ちにさせる。
なぜそのような気持ちが自分の中に湧き起こるか?
これは、もしかすると、今の世の中が一つの過渡期にあるからなのではないか、という考えに至りました。世の中で一人の人間が共感できる量と構造の限界が来ている気がしているのです。


他者共感の限界

今までの社会では、他者に共感するということがとても強く求められました。みんな同じ考え方を持って、全員で同じスローガンを掲げて努力するという世界線。例えば日本において戦争の時代では、国という単位の意思が人の意思よりも確実に大きかったし優先されることが当たり前でした。

例えば「勅語」という言葉が代表的ですが、一〜二世代前は、誰か一人の声に対して、全員がコミットメントをすることが当たり前の社会だったわけです。

それはすでに過去のことか?というとまだかなり近い現代でも存在していた感じがします。
例えば、全国民のうちほとんどがテレビメディアを見て、同じ時間に同じ番組を見て笑っている、という状態は、中央集権的な組織構造のもと、人々の感情をコントロールしていた、という状態に結果的にはなっている、とも言えると思うのです(少なくとも見ていたのが例えばコメディだとしても同じ方向を向くということへの助長)。最近はもちろんメディア側の意図をできる限り削いで事実を伝えるストイックな番組ももちろんあることは知っています(ハイパーハードボイルドグルメリポートとかすごいですよね)

内容面に対して特に何をいうことはないのですが、例えば24時間テレビとか、感情をコントロールしようとしている意図がかなり明確です。でも世界の中で重要なアジェンダやシーンを扱っているはずなのに、それがまるで全てかのように描き、そこだけを見て(それさえ見ていれば他を無視して良いか…?という疑問がここで湧く)、そこに対してメディア側が意図した感情を想起させるようなストーリーと音楽と演出、良くも悪くもすごくテレビという感じがします(そこに何かしらの倫理観が欠けているような感覚もありますが…)

今はどうか?

つい最近5年くらいで、何かしらの重要なアジェンダがあったとして、それにコミットするか(例えば寄付するとか)どうかは流石に個人に自由を委ねられるとして、それが大事なものであることは共感はしようね?という風潮があったように思います。例えばジェンダーの問題、持続可能エネルギーの問題、選挙制度の問題、教育の問題、などなど・・・。色々なアジェンダが世の中で流れて、課題意識を強く持つ人が変わりばんこに人々の前に順番に出てきて「これは大事なことです!だからしっかりみんな考えましょう!」と主張する。

別にこの主張がされること自体が間違っているというつもりは全くないし、やめようよとも全く思いません。そのように重要な課題に対してコミットをする人がいるからこそ、世の中が少しでも正しい方向へこと歩みを進めることができるのですから。

しかし、今この現代、あまりにも解決しなければならない課題が山積されていて、それらの課題の構造を正しく捉えた上で、その解決に向き合うことはほぼ困難になってしまっているのだと思います。
例えば戦時中は、「〇〇という国に勝つ、そのために国民は贅沢をするな!」というのが唯一至上の命題であって、それにコミットする、という行動規範がありました。(ここには自由がない)

一方で現代では、あまりにその課題が多く複雑すぎる。せめてその課題をわかりやすく、誰もが手を上げやすいように目標を整理したものがSDGsですが、価値観も考え方も多様な世の中で、それら全ての課題の構造を正しく理解して、向き合うのは、ほぼ不可能です。

では、今どうなっているか?おそらく多くの人は、「なんとなく重要そうな課題がたくさんあって、全部大切ね(でもどれがどんな状況なのかあんまりよく知らない)」って感じになっているのだと思います。


ここは誰かの小宇宙

この状況が適切かはどうかは別にして、一つの大きなまとまりとして、全員で良い方向へ同じアプローチで物事を進めていく、ということはもう無理なのだと思います。

そして世の中の構造は、それぞれの小宇宙に変わっていっています。
人は社会と接点を持つ際には、今までのように「中央−個個…」で全体が内包されるような結合ではなく、「個−個-個」/「個−個-個」という小さいコミュニティが分かれて小宇宙のように分かれて浮いているという状態なのだと思います。
個人がコミュニティを越境することはありますが、コミュニティ同士が重なることはほぼありません。そしてコミュニティごとで全く異なる価値観が共有されている。(このコミュニティごとで人格が異なるはずと考えたのが平野啓一郎の「分人」の考え方だと思っています)

これはSNSを想像すると分かりやすく、Twitterで言うとあなたのタイムラインが小宇宙で、フォローフォロワーがそのメンバーです。その世界の中で情報の行き来が基本的に完結されている。

Youtubeで考えても同じです。中央集権的な何かが流しているものを見るのではなくて、無数にある個の発信から自分が選び取って(チャンネル登録して)、情報を摂取する(またはレコメンドされること受け取る)という構造になっています。
すでに子どもが見るメディアとしてYoutubeが大きくなっている現状を考えると、結果的にこれから社会に出てくる(出てきつつある)世代は価値観がさらに多様化されていくのではないでしょうか。(いやGoogleのレコメンドのアルゴリズムによって左右される状態であるとも考えられますね。どうなんだろうか。そこら辺の倫理ってどのように議論がされているのだろうか。年齢制限とかは分かりますが・・・)

こういった情報とコミュニティの構造の中でどのようなことが起こるか?
先のように全体で重要なアジェンダを共有するということが不可能になるのです。すべてのコミュニティで「誰か」が課題を主張するのは難しくなってくる。
今はまだ過渡期なので、例えばテレビメディアが強い力をまだ持っているので、研究者などは研究費獲得、もとい優先度向上のための選択肢としてテレビメディアに露出して課題に対する認知を取ろうとしていますが、それもそろそろ限界が来てもおかしくありません。といいますかほぼ限界なのだと思います(iPS細胞の山中教授がテレビに出てマラソンして寄付を募るとか、ディストピア小説ですかよって状況ですが…。)


他者共感から他者寛容へ

みんなで同じすべての課題にみんな同じテーブルに座って話し合うという時代は終わったのだと思います。一人一人の宇宙の中でそれぞれの世界を生きていく、そういう価値観の世の中にこれからどんどん変わっていくと思います。多分自分が感じた違和感の正体は、この変わりゆく間のギャップなのだと思います。それぞれがそれぞれの価値観の世界の中での幸福を追求していく。

そうなると「隣のコミュニティのことは知らん」ということになる。全体としてみたときに集合の群れは意図せずに格差是正への意識は過去と比べると弱くなっていくのかもしれません。でも多様化ということはそういうことも内包される傾向があるとも思うのです。

この多様化の対極にあるのが、例えばSF的な技術特異点の向こう側を描いた社会主義世界、オルダスハクスリー「素晴らしき新世界」やジョージオーウェル「1984」的世界です。みんな価値観が全く一緒であることが脳にプリインストールされていて、それに従っている限りは、何もしなくても裕福な暮らしをすることができる。(そして人間はベルトコンベアーで生まれる)

共有するコンテクストが狭くなっていくため(ex.同じテレビ番組を見てきた)異なる小宇宙に住む遠い個人同士がお互いを知ることは難しく、どんどん他者共感は難しくなり、これからは、隣の誰かを共感はできないけれど尊重はする、「他者寛容」が求められる時代になっていくではないでしょうか。

幸か不幸かテクノロジーの進歩によって(むしろこれが社会に影響を与えているとも思えますが)、課題解決のアプローチは、集中的に資本を投下すればいい、という資本主義的な論理ではなくて、小さくても鋭く課題に刺さるものが見つかれば多くの課題は突破可能な可能性がある、という小宇宙的なコミュニティがうまく生きる構造になっていると思います。

例えば研究予算は、一つの分かりやすく投資に対するリターンが明確なプロジェクトに対して集中的に投下するのではなくて(なぜならリターンは今の時代予測不可能だから、そして予測可能であると思っていること自体がリスクになりうるから)、リターン確率は不明確なことを前提として、検証するに値する仮説が立っている、というものにも広く投資するというアプローチの方が有効で、これは上で述べたような社会構造にもフィットしていると思います。(といっても日本はこれができていないのですが…)

未来のプロトタイプとしての物語

そこでとても難しい問題として起こりうるのが、お互いそれぞれの世界を人々は暮らしているが、世界の未来はみんな一緒に共有するものであり、それはみんなで一緒につくっていかなきゃならないということです。
別の惑星にそれぞれ移住できたらいいのだけどそういうわけにはいかないので、この船を持続可能なものとして解決に向けて進めなければなりません。
さっき言ったことと矛盾すらしているように聞こえますが、共感の困難なこの時代の中で、この根っこの課題だけは後世のために、誰もが無視しちゃいけないはずなのです。過去の人間から生まれた私たちである限り、その利益(と負債)を受けている限り未来に対してはコミットしなきゃいけないはずです。

すべての課題をそのままに共有することは難しい(なぜなら課題が多すぎるし、コミュニティが多様化している)が、未来はお互いに共有する必要がある。
このために一つ考えられる有用かもしれないと思ったアプローチが、物語(など)を世界を語る仮説としてつくるという考え方です。「コンセプチュアルデザイン」と呼ぶらしいです。またの名は「スペキュラティブデザイン」。(アンソニー・ダン『SPECULATIVE EVERYTHING』)
例えば先ほど、ジョージオーウェルと、オルダスハクスリーの描いた世界を例に出しましたが、あれもスペキュラティブに世界のあり方を描いています。
あのような形なら、同じ未来をみんなで見つめる(そして読んだ人はすでに見ている)ことができるし、違う背景を持っていても、物語さえ共有していれば、同じキャンバスの上で描きうる。
もちろん彼らがした実験は、ある一つの思想を極端に進めたときにどのようになるのか?というものを描いたものであり、これが良い・悪いは別として、例えば「このように進んでいいのか?」という問いがそこに起こり、議論をはじめることができるようになることが先の価値だと思うのです。

物語であれば、コンテクストの共有も可能だし、そもそも抽象的な議論でとっ散らかって、なんとなく聞こえ心地の良いもので終始せずに(cf.国の首長同士の会議の大部分)ある意味での未来のプロトタイプとして扱うことができると思うのです。

元々文学とか好きで書いたり読んだりしていたので、同じように文学が好きな人からすると、「物語を課題解決の道具みたいに使うんじゃない」とか思われる方ももしかしたらいらっしゃるかもしれません。
しかし文学だってそもそもそういう役割を少なからず担ってきたようにも思えます。それは例えば社会を描くのではなくて、人間の内面に迫るためのプロトタイプ(仮説)とも言えるのではないでしょうか。

そうでなくとも、例えば村上春樹は地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災、ノモンハン事件など、現実に起こった事件を一度自分の中に潜らせて(彼はそう言います)再構築するというアプローチで物語ることもあります。明確にその可否や良し悪しを描くのではなくて、それを象徴的なものとして周辺的なものを描く、つまりその出来事が世界に与えたかもしれない影響の可能性のうちの一つを描くことを通じて、現実と何かしらのリンクをさせることで物語の一見奇妙なリアリティを持たせることになっているように思います。

それぞれの小宇宙

描くべき未来の青写真を共有できたのならば、それぞれ自分たちが解くべき課題だけを持ち帰って、その自分のコミュニティの中で向き合っていく、可能であればじわじわと(何かしらの方法で)社会に広めていくということができると思うのです。例えば、共有した中で、自分は「エネルギー」のテーマにはコミットしたい!と考えればいいのです(僕は今のところは「教育」に向き合っています)。

「全部大事だぞ!」と言われて全部なんとなく大事そうという状態よりは、「他のテーマのことは正直詳しくは分からない、全部へのコミットは難しい、けど尊重はする、そして自分の持っているこのテーマは大事だ」とそれぞれ考えられる、という状況の方が、きっと前に進みやすいと思うのです。

2031.4.18

今はコロナウイルスが猛威をふるっている世の中で、世界のほぼすべての国が感染拡大を止めるという一つの課題を否応なく共有しているという、今までの人類史の中でもかなり特殊な状況なのだと思います。
この危機をどのように乗り越えていくのか?ということは、そのさきに残されている色々な課題にどのように向き合うかにとても大きく影響していくんじゃなかろうか、と思ったりしています。


自分は自分の小宇宙で。
自分の手の届く範囲で、でもできる限り善くありたいなあ。

2021.4.18

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?