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ナポリタン喫茶店味・「懐かしい」を食べる

喫茶店で食べるナポリタンには不思議な趣があります。
私たちが共通で持っている「懐かしさ」を鍋に広げて、茹でてケチャップソースにあえてみたらきっとこんな味なんでしょう。
食事に関して趣がある、という言葉はとんと使わないのですが、喫茶店で食べるナポリタンには、どうしたって調味料で変わるのとは異なる味わいがあります。
普段は本を読むために訪れる場所で食べるあのくたくたで濃ゆくておいしいとても普通でどうしても特別なナポリタン。

ローマで食べるエビのパスタ、シカゴで食べる厚いトマトソースピザ、ウィーンで食べるザッハトルテ、鎌倉で食べる煮魚定食、素材やレシピが地域で変わるのはもちろん、それぞれの場所で食べるからこその味わいがあります。

その点、喫茶店のナポリタンは、ちょっと話が違います。喫茶店のナポリタンはどの街で食べても、不思議とレシピや味の方向性は近いところにまとまっていて(まさに喫茶店のナポリタン)、それでいてその体験や趣は、お店それぞれのオリジナリティがある。本当に不思議でたまりません。

元々ナポリタンの出自は、イタリアはナポリ地方で特産品のトマトをふんだんに使ったパスタが食べられていて、その地域からアメリカはニューヨークに渡った人が、トマトをケチャップソース代替して生まれたという説が主流です。なるほどだから粉チーズに、タバスコが添えられるのですね。
日本でこのナポリタンがはじまったのは桜木町から南の野毛の横丁を通り抜けた先の川の近くにある洋食の老舗「センターグリル」と言われています。ここの洋食はしみじみと美味しい。


喫茶店でナポリタンと無糖のアイスコーヒーを注文します。「ナポリひとつでーす」と厨房に注文が通ります。少しすると、甘いケチャップソースが温められた香ばしさが厨房から漂ってきます。

普段本を読みにこの喫茶店に来ている時には、他のお客さんの掛け声で漂ってくるこの香ばしさが本の世界に紛れ込んできて、例えばハインライン『夏の扉』のページを捲りつつ、猫のピートと扉をくぐってみたら、そこはいつものキッチンだった…なんてことになります。混線。

少しすると、テーブルではナポリタン用の食器の用意がはじまります。
紙ナプキンの上にフォーク、その隣に粉チーズとタバスコが添えられます。喫茶店のテーブルには普段カトラリーは置かれていないので、このメニューを頼む人だけにこの準備が始まります。特別な晩餐がはじまるのかのような楽しさがあります。

アイスコーヒーが到着して、少し喉を冷やしながら本を読み進めていると、あの香ばしいくあまいナポリタンがテーブルに届きます。いつもはくつろぎに来ているこの席が、このお皿が給される瞬間に、意識がぐるっと切り替わります。ついでにお腹も鳴ります。

ナポリタンはケチャップでコーティングされていて、ピーマンの細切り、玉ねぎ、マッシュルーム、その上になんとハムまで、そしてキャベツとレタスに、タマゴのサラダが添えられます。このナポリタンだけではなくて、その脇役たちも非常にしっかりとした、喫茶店らしい素晴らしいキャスティングです。脇役たちも、いつも他のメニューでは主役を張っているのですからさすがです。

「喫茶店のナポリタンスパゲティ」アカデミー賞受賞は避けられないでしょう。そしてやっぱり主演男優賞はナポリタン、顔立ちや風貌は一見海を超えたような彫りの深い風貌をしていますが、口を開いて、振る舞い始めたら、生粋の下町育ちの青年です。人懐っこい屈託のないくしゃっとした笑顔がトレードマーク。
主演女優賞はなんとも決め難いのですが、私はタマゴサラダを推したいと思います。こってりとしたナポリタンに対して、中和すべくあっさりでぶつかろうとするのではなくて、タマゴのまた別のまったりさで包み込もうとするその力強い柔らかさと母性のような優しい懐の深さ。

喫茶店のナポリタンはおおよそは茹ですぎなくらいの茹で加減の柔らかさのことが多くて、具材も一緒になって渾然一体としています。スパゲティ専門店とかなら、固茹でのパスタにバランスさせて具材にもパリッとした食感を残そうとしたりするのですが、喫茶店の厨房では、じっくり柔らかくなるまで煮詰められていく。
これがむしろ功を奏していて、柔らかいスパゲティとあまいケチャップ(そして隠し味のソース)、そして炒められたくたくたの野菜たちが一つにまとまってこってりとしたソースのようになっているのです。

フォークでスパゲッティの端っこからくるくると巻き取っていく。とても濃度が高いので、これもまた食べるのに優しい。
ああ喫茶店のナポリタン!!素材こそ普通でも変えられることのない特別の味。

よく考えると、喫茶店で出されるパスタ料理は、大抵はナポリタンだけです、ペペロンチーノはないしもちろん、ボンゴレもない、ではなぜナポリタンだけなのか?これは時間をかけて煮込み炒めるというプロセスが若干アバウトだったり、行きすぎた?と思ってもむしろそれが味わいの深さにつながっているという稀有なレシピであるということと、やっぱりソースが管理しやすいケチャップであること、そして喫茶店の香りに不思議とマッチするのがこの料理だからです。

イタリアからアメリカ経由で渡ってきたナポリタンスパゲッティがたどり着いたのは日本の喫茶店だったのでした。ナポリタンスパゲティという銀河を流れてそして数十年後、私たちはどんなパスタを喫茶店で口にするのでしょう。
きっと変わらないあのこってりとした永遠の懐かしい味がいつまでも忘れられず、またお腹が減ったときに、喫茶店で注文します。「ナポリ一つでーす」

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