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ゴッホ

現代詩手帖 11月号 第65巻・第11号
新人作品 選外佳作


徐々に薄まっていかなくちゃいけないものが、ひっそりと濃くなってきたのを感じる。まわりの人がひとつずつ置いていくものを、まだ持っていなくて、持っていないから、うしろについて、置かれたものから回収していく道中だった。本だって、いっぺんに何冊も片手に持って運べるのが自慢で、角ばったものや見かけによらず重いものや、かさばるものを拾っていってもあまりあるのだ。だから終わりに近づくにしたがって、薄れて軽く遠ざかっていくものが、代わりにそのぶん濃くなっていって、輪郭まではっきりとわかるようになってきたのを近ごろ感じる。

生前は、ずっとなにかなくてはならないものが、ひとりたしかに足りていなかった。見渡せばみんなが元気だったし、ものをわかっていたし、幸せであったのに、誰もがたやすく周囲の空気のなかから、引っ張ってこられていたものが、どこにも見つからない思いをした。だからむやみに空を切って、身体を掻いて、むさぼるように探したりもした。一点をみつめて、一点を切り取って、取っておいてから探そうとした。それでもあるものにはあって、ないものにはないもので、結局なかったから、ずっと薄いままになった。輪郭をもつたくさんの人たちに、薄い声は届かなかったし、薄いものはきっと見えていなくて、いくら焦ってもがいたところで、どうしたってそれは、その人たちのせいではなかった。みんな、優しかったと思う。

拾って回ったものたちは、ひとつずつ、鮮明になっていく過程をくれた。濃くなって濃くなって、手応えを得られていくプロセスに、じんわりした温かみがあるのを知った。このエネルギーのある混沌に、余りあった時間と知能に、いま足りなかった文脈を、ひとつひとつ取り戻している。それでもこれはすれちがいで、知っているどの人でもみんな、抱えたものとの時間を終えて、順に手放していってしまうのに、いまさらひとり、濃くなっていく。みんなが薄く、忘れていくのに、さびしく濃く、残されていき、ようやくなにかを手に入れたのに、とっくの昔に死んでしまった。ときたい誤解はたくさんあるけれど、したい話もたまってきたけれど、みんなはぼやけて消えてしまった。くっきりしたこの輪郭のまま、両手いっぱいにものを抱えて、額に入れられ壁に飾られ、このさきずっと、ここに留まる。


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